潮風と、君の声 | 40代社畜のマネタイズ戦略

潮風と、君の声

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【まえがき】

静かな町の、誰にも気づかれないような風景。そこに、息をひそめるように生きている声があります。

この物語は、「言葉にできない感情」が主役です。誰かと一緒にいたいのに、どうしても言えない。傷つけたくないのに、うまく伝わらない。そんな不器用なふたりの、淡くて確かな日々を描きました。

90年代の広島という舞台は、携帯もSNSもなかった時代。だからこそ“沈黙”や“すれ違い”が、今よりももっとリアルで重かった。

読後、心に潮風のようなやわらかい余韻が残れば嬉しいです。

【登場人物紹介】

● 僕(新/あらた) 転校が多く、どこか“傍観者”のように世界を眺めている少年。凪咲に惹かれ、静かに寄り添う存在へと変わっていく。

● 秋月凪咲(あきづき なぎさ) 無口で目立たないが、心の奥に静かな強さを宿した少女。離婚家庭に育ち、家庭内でも学校でも居場所を見出せずにいる。

● 中原 隆(たかし) 新の友人。地元育ちで人懐っこい性格。凪咲の背景を誰よりも理解しており、新に助言する。

● 藤木先生 古い価値観を押しつけがちな厳格な担任。女子同士のいざこざを“若さの証拠”と片付けがち。

● 凪咲の祖母 家庭菜園を営み、凪咲に唯一心を開く大人。多くを語らず、孫の変化を見守る。

目次

【まえがき】

【登場人物紹介】

第1章:転校生の見た空

第2章:坂の途中

第3章:小さな約束

第4章:見えない距離

第5章:海までの地図

第6章:音のない手紙

第7章:雨とシャツと七月の匂い

第8章:祖母の畑と、朝の匂い

第9章:遠雷と、沈黙のリズム

第10章:潮風と、君の声

『潮風と、君の声』完

【あとがき】

第1章:転校生の見た空

1995年の春。
瀬戸内の海は、今日も薄く光っていた。
バスの車窓から見える海岸線は、どこまでも穏やかで、
それが、俺の胸のざわつきとは対照的だった。

広島市内から2時間。
電車を乗り継ぎ、さらにローカルバスに揺られて着いたのは、
鞆ノ岬(とものみさき)という小さな港町。
瓦屋根が並ぶ坂の町に、俺は今日から住むことになった。

「やれやれ、また転校か……」

俺の名前は、早川 新(はやかわ しん)。
父親の転勤で引っ越しはもうこれで3回目。
都会から地方への移動には、もう慣れたはずだった。
でも今回は、どこか違った。
見知らぬ町に降り立つこの感覚に、慣れていない自分がいた。


鞆ノ岬高校は、坂の中腹にある。
白い校舎の窓からは、瀬戸内海が一望できた。
教室に入ると、ざわついた空気が一瞬止まり、
俺に向けられる視線が集まった。

担任の藤木先生が、俺を黒板の前に立たせて紹介する。

「今日からこのクラスに転校してきた早川新くん。東京から来たそうです」

「広島市です」と、俺は訂正した。
でも先生はもう気にしていなかったようで、
「じゃあ早川くん、そこ空いてるから」と、窓側の席を指さした。

その席の隣には、ひとりの女子生徒が座っていた。
黒髪を短く切りそろえ、どこか冷めた目で窓の外を見ていた。

「秋月凪咲(あきづき なぎさ)さん。よろしくな」

先生がそう紹介するが、彼女は何も言わなかった。
ただ、うっすらと会釈のようなものをして、また海の方へ視線を戻した。

その目が、どこか遠くに焦点を合わせているようで、
俺は少しだけ、息を詰めた。


放課後、俺は一人で下駄箱の前にいた。
どの道が帰り道なのか、正直よくわかっていなかった。
そんなとき、後ろから声がした。

「おーい、新くーん。お前、帰るんか? 港町ルーキー!」

声の主は、中原 隆(なかはら たかし)と名乗る男子生徒だった。
顔が広くて、やたらテンションが高い。

「うちのクラス、ああ見えて優しいヤツばっかりよ。
ま、あの凪咲は別やけどな」

「……あの子、変わってる?」

「変わってるっつーか、近寄りがたいよな。
でも昔からそういう子やけん、悪く思うなよ。ほら、海、見に行こうぜ」

彼に連れられて坂を下る。
やがて港が開け、夕焼けの中に漁船が並んでいた。

海風がふっと吹いた。
潮の香りに混じって、遠くで誰かがラジオを流していた。
アナログの、少しかすれた音。
1995年の春の音だった。


そのとき、不意に思った。
この町は、静かなだけじゃない。
言葉にならない何かが、
海と空のあいだに、確かに揺れている。

そして、あの凪咲という少女もまた、
その“何か”の中にいるような気がした。

第2章:坂の途中

朝の坂道は、思った以上にきつかった。
港町というものは、どうしてこうも坂ばかりなんだろう。
上り坂の途中で立ち止まると、背中のランドセルのように、海の匂いがついてくる気がした。

鞆ノ岬高校の最寄りのバス停から、校門までは長い石畳の坂を登っていく。
まだ学校に慣れない俺は、毎朝この坂を登りながら、言いようのない所在のなさを感じていた。

その朝も、息を切らしながら曲がり角に差しかかったときだった。

「……あ」

そこにいたのは、昨日の秋月凪咲だった。
制服のスカートが海風に揺れていた。
彼女は俺に気づくと、ほんの一瞬だけ眉をひそめたように見えたが、
すぐに視線を前に戻して、何も言わずに歩き出した。

無言のまま、同じ坂道を登る。
ただ、それだけだった。

けれどなぜか、俺はその距離を保ったまま、歩くペースを彼女に合わせていた。
不思議と、その沈黙が心地よかった。


昼休み、教室の窓から海が見えた。
凪咲はいつも、ひとりで窓際の席に座って、弁当を広げている。
クラスメイトと話すことも、笑うこともほとんどない。

隆が言った。「あいつ、あれで昔はよく喋ってたんよ」

「そうなのか?」

「ああ。小学校の頃は、よく港で男子相手に石投げてケンカしよった。
でも、中学に上がったあたりからやな。急に、黙るようになった」

「……理由は?」

「知らん。聞いても答えんし。まあ、お前が気にすることでもないけどな」

そう言って隆は笑った。
でもその目は、少しだけ遠くを見ていた。


放課後、坂道を下っていたら、後ろから凪咲の足音が聞こえた。
俺は足を止めて、軽く振り向いた。

「……帰り、こっちなのか?」

彼女は小さくうなずいた。
そして数歩先を歩いて、立ち止まった。

「……この町、嫌い?」

唐突な質問だった。
でもその声は、風のように弱く、海のにおいと混ざって、耳に残った。

「いや、まだわからない。海はきれいだと思う」

凪咲は、うっすらと笑ったように見えた。
でも、すぐにその表情は消えて、また静かに歩き出した。


坂の途中。
ふたりきりの沈黙と、ゆっくりとした足音。

その時間は、言葉よりも多くを伝えていた。
たとえば――
この町の風が、少しだけ優しくなった気がしたのは、
俺の気のせいだったのかもしれない。

でも確かにそのとき、彼女は俺の隣を歩いていた。
それだけで、何かが変わり始めていた。


第3章:小さな約束

六月の風は、少しずつ湿気を帯び始めていた。
鞆ノ岬の空も、雲の切れ間から射す日差しが、夏の訪れを予感させる。

朝の坂道で、秋月凪咲と偶然出会うことが、もう“偶然”ではなくなっていた。
時間を少しだけずらせば彼女に会える。
そんな習慣が、日々の中にしみ込んでいった。

言葉は少なかった。
でも沈黙は、少しずつ柔らかくなっていた。


そんなある日、学園祭の準備委員のくじ引きがあった。
教室で引いた紙には、俺の名前と、もうひとりの名前が並んでいた。

「秋月凪咲……と?」

藤木先生が少しだけ困ったような顔をして、
「まあ、これは運命じゃな」と言った。
クラスが少しざわめく中、凪咲は席から立ち上がりもせず、視線を教室の外に投げていた。


放課後の美術準備室。
使われなくなった机と椅子が積まれたその部屋で、
俺と凪咲は学園祭のポスター作りを任されていた。

「……何描く?」

「……別に、何でもいい」

それきり、しばらく沈黙が続いた。

でも、ふとした瞬間、彼女が呟いた。

「……海の絵、描ける?」

「海?」

「あなたの、見てきた海」

彼女の視線は、俺の手元ではなく、少し遠くを見ていた。
俺は筆を取り、白い紙の上に、自分なりの“海”を描きはじめた。

子どもの頃に住んでいた神奈川の海。
広島市の湾岸で見た、工場の煙越しの海。
そして、今、鞆ノ岬の港で毎日見ている、やわらかい海。

描きながら、不思議と心が静かになっていくのを感じた。

「……これが、俺の海だよ」

描き終えたとき、彼女はその絵をじっと見ていた。
それから、小さくつぶやいた。

「……やさしいね、その色」

その言葉が、妙に胸に残った。


作業が終わり、準備室を出ようとしたとき、
彼女が突然、言った。

「来週、港でライブあるの。……地元のバンド。行かない?」

予想外の誘いだった。

「……ああ、行くよ」

気づけば、俺は即答していた。


それはほんの、小さな約束だった。
紙に書くでもなく、握手するでもなく。
ただ、ふたりの間にそっと置かれたような、約束だった。

けれどそのとき、俺の中で何かが変わりはじめていた。
この町で、彼女と一緒に何かを待つということが――
少しだけ、楽しみに思えた。

第4章:見えない距離

ライブの当日、鞆ノ岬の港は、いつもよりざわついていた。
漁船の合間に組まれた仮設ステージと、
地元の屋台が並ぶ小さなイベント。
広島市内から来たらしい大学生のバンドが、夕暮れの潮風にギターを響かせていた。

「……ちゃんと来たんだ」

後ろから声をかけられ、振り向くと凪咲がいた。
制服ではなく、白いブラウスとデニムのロングスカート。
その姿がやけに眩しく見えた。

「言っただろ、“行くよ”って」

彼女はうっすら笑って、港の堤防の方へ歩いていく。
俺は黙って、その後ろをついて行った。


港のはずれ、灯台のそばに腰かけて、
ふたりで音楽を聴いた。

潮騒とギターの音が混ざり合って、
海と空の境界が曖昧になっていく。

「この町……出たかったんだ」

唐突に、凪咲がつぶやいた。

「ここにいたら、全部“わかったつもり”になるから。
言葉にしなくても、“どうせこういう子”って決められる」

「……じゃあ、なんで俺を誘った?」

彼女は少し黙って、それから言った。

「たぶん、“知らない人”だったから」

その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせるようだった。


帰り道。
坂道の途中で、俺はふと立ち止まった。

「俺、たぶん……この町、嫌いじゃないかも」

凪咲は黙っていた。
でもその横顔は、どこか少しだけ緩んでいた。

それは“笑顔”と呼ぶには、あまりに儚く、
でも、誰よりも強い感情のように思えた。


翌日、教室で彼女と言葉を交わすことはなかった。
まるで何もなかったかのように、彼女はいつものように窓際に座っていた。

クラスの女子たちが俺の方をチラチラと見ているのに気づいた。
中原隆が「お前ら、何勝手に盛り上がってんだ」と笑いながら言った。

「なあ新、お前と凪咲、昨日港で一緒だったんじゃろ?」

「見てたのかよ」

「いや、友達が見たって言ってた。
“いつも無口な秋月が、男と二人で”って。
まあ、お前らがどうでもええんじゃけどさ、
でも、……気をつけろよ」

「気をつける?」

「この町、狭いけん。誰かが何か言えば、すぐ噂になる。
秋月は、そういうの……たぶん、苦手だ」

俺は何も言えなかった。


午後、坂の途中で偶然彼女とすれ違った。
でも、彼女は俺を見なかった。

目が合わなかったわけじゃない。
彼女は、意図的に視線を避けた。

そのとき、はじめて俺は思った。
俺たちは“近づいた”んじゃない。
ただ、“近づいたように思えた”だけなのかもしれない――と。

見えない距離。
それは、声では届かないものだった。

第5章:海までの地図

あれ以来、秋月凪咲は俺を避けるようになった。

教室で視線が交わることもなければ、
坂道で並んで歩くこともなくなった。

それでも俺は、彼女の姿を目で追っていた。
どうしても気になって仕方がなかった。


ある日、図書館の前で中原隆に呼び止められた。

「お前、まだ凪咲のこと気にしとるん?」

俺は答えなかった。
代わりに隆が言った。

「……秋月んちは、ちょっと複雑なんよ」

話によると、彼女の両親は彼女が中学生のときに離婚した。
今は母方の実家で、祖父母と叔母、そして小学生の妹と暮らしているという。

「親父さんは、もう東京におるらしい。
電話はしてるみたいやけど、たぶんあんまり話してない。
あの家、凪咲にとっては……狭いと思うよ」

「狭い?」

「“部屋が”って意味じゃない。
あの家じゃ、凪咲の“声”は届かんのよ。
何を言っても、誰も耳を貸さん。
“女はこうあるべき”って空気が、ぎゅうぎゅうに詰まっとる」

言葉に詰まった俺に、隆は続けた。

「お前が何かしてやりたいと思うなら、下手なことせんほうがええ。
あいつは、“助けられる”のが一番イヤなんじゃけん」


その日の帰り道。
俺は、ふと足が向いた先で、彼女を見つけた。

海沿いの堤防に腰かけ、波を見ている。
声をかけるべきか迷ったが、気づけば隣に座っていた。

「……前に言ってたな。海、好きだって」

彼女はうなずいた。

「この海は、においが優しい。
でも、家の中は……波の音、聞こえない」

風に乗った言葉が、淡く消えていく。

俺は、小さな地図帳をカバンから取り出した。

「昔、いろんな町を転校してたときに描いてたやつ」

ページをめくると、そこには小さな港町や、
通った坂道、見た空の色が鉛筆で描かれていた。

「……これ、自分で描いたの?」

「うん。海のある町は、全部似てるようで、少しずつ違う。
でも、不思議と……思い出すのは、そのとき一緒にいた人のこと」

彼女は、静かに一ページをめくった。

「わたしの町も、描いてくれる?」

その言葉は、まるで遠くから投げられた紙飛行機のようだった。

俺はうなずいた。

「……じゃあ、見せてよ。君の“町”を」

彼女は、少しだけ微笑んだ。


その日から、少しだけ風向きが変わった。
朝の坂道も、放課後の夕焼けも。
秋月凪咲の視線が、また少しだけ、俺の方へ向くようになった。

けれどそれは、たった一歩分の変化だった。
まだ、“声”は交わっていない。

彼女の地図の中に、俺はまだ描かれていないのかもしれない。
それでも――

描きたいと思った。
あの波の音を、潮のにおいを、そして彼女の横顔を。

いつかきっと、ひとつの風景として。

第6章:音のない手紙

六月の終わり、鞆ノ岬高校では期末テストが始まっていた。
教室はいつもより静かで、鉛筆の音と、時計の秒針だけが響いていた。

そんな中、ふとした違和感を覚えた。
凪咲の机の引き出しに、何かがねじ込まれている。
テスト終了後、彼女がそれをそっと取り出し、鞄にしまうのを俺は見た。

紙切れのようだった。
それは、音のない手紙。
だが、その“沈黙”こそが、何かを伝えていた。


翌日、昼休み。
隆と購買でパンを買い、教室に戻ると、凪咲の机の上に誰かがノートを置いていた。
表紙にはボールペンで書かれた落書き。
「お高くとまるな」「人の気を引こうとすんな」「お前だけ別だと思うな」

俺は、怒りより先に、寒気がした。

「……誰がやったんだ?」

問いかけは教室の空気に溶けていった。
誰も何も言わない。
周囲の女子たちは知らぬふりをして、笑いながら別の話題をしていた。

凪咲は、そのノートを無言で閉じ、カバンにしまった。


放課後、俺は凪咲を追って、図書室の裏手にあるベンチに向かった。
そこは彼女が時々ひとりになる場所だった。

「……見たよ、あれ」

彼女は何も言わなかった。
でも、その手が、膝の上でかすかに震えていた。

「……先生に言うべきだよ。あんなの、ただの――」

「やめて」

その言葉は、はっきりしていた。

「私が、言ったって、どうせ“誤解”で片づけられる。
“女子同士の小さないざこざ”って、笑われるだけ」

「それでも、俺は――」

「やめてって言ってるの」

彼女の声は、初めて鋭かった。
俺の言葉を、断ち切るようだった。

「……ごめん」

沈黙が、再びふたりのあいだに落ちた。


彼女はゆっくりと、口を開いた。

「中学のときにもあった。
父がいなくなった頃、“片親”だって言われて……
それが、静かに広がって。
私はただ静かにしていただけなのに、“無愛想”だって言われた」

風が吹き、彼女の髪が揺れた。

「言葉を失うのって、こうやって始まるんだよ。
気づかないうちに、“喋らないほうが楽”になるの」

その目は、誰にも見られたくない海の底みたいに、深く静かだった。


「……だったら」

俺は、言った。

「俺は、君が黙っていても、そばにいるよ」

彼女は、一瞬だけ驚いた顔をした。
そして、そっと視線をそらした。

「それは、どういうつもり?」

「“助ける”とかじゃない。
ただ、同じ地図に描かれていたいだけ」

彼女は答えなかった。
でも、そのとき、目を閉じたその表情は――
海の音に、少し似ていた。

第7章:雨とシャツと七月の匂い

七月に入って最初の週、鞆ノ岬には珍しく連日の雨が降っていた。
港の魚市場も静まり返り、いつもは潮風の匂いがする通学路には、
濡れたアスファルトの匂いが漂っていた。

その朝、学校に着くと、靴箱の中に何かが入っているのに気づいた。

凪咲のだった。
白い運動靴が、誰かに水をかけられていた。
中までびしょびしょに濡れて、靴底から泥がにじんでいた。

俺は、言葉を失った。

「……まだ続いてるんだな」

後ろから声がして、振り向くと、隆だった。

「気づいてないと思ってたんか? 女子の間のこういうの、
誰も止めようとせんよ。見えんふりしとるだけじゃ」

「先生には?」

「藤木先生か? 無理だな。
あの人、“女子は仲よくしなさい”って言うだけで終わりよ。
“嫉妬は若さの証拠”って、本気で言うタイプじゃけ」


俺は、自分の上履きとタオルを持って、凪咲の下駄箱へ向かった。

靴を出して、タオルで軽く水を拭き取っていたときだった。

「……何してるの?」

声がして振り向くと、凪咲がいた。
傘も差さず、髪が少し濡れている。
目は、少しだけ怒っているように見えた。

「……別に、俺が勝手にやってるだけ」

そう言うと、彼女はしばらく黙って、それからぽつりと呟いた。

「……私、怒っていいのかな」

「怒ればいいじゃん」

「怒ったら、“面倒な子”になる。
泣いたら、“かまってちゃん”って言われる。
笑ったら、“調子に乗ってる”って言われる」

彼女は、少しだけ震える声で言った。

「じゃあ、どうすればいいの?」

その問いに、俺は答えられなかった。

でも、俺は傘を差し出した。

「とりあえず、これ。雨、強くなってる」

彼女は、その傘を受け取って、
何も言わずに、階段を上がっていった。

その背中が、少しだけ軽く見えたのは、俺の気のせいだろうか。


午後、教室で藤木先生が言った。

「最近、学校内での風紀が乱れているようだ。
女子諸君、仲よくやってくれ。学校は、社会の縮図だからな」

クラスが静まり返る。

誰かが、くすっと笑った。
誰かが、机をそっとたたいた。

でも、誰も何も言わなかった。

凪咲もまた、何も言わなかった。
ただ、まっすぐ前を見ていた。


その日の放課後。
濡れた空気の中、俺たちは同じ坂を下っていた。
言葉はなかったが、不思議とそれでよかった。

凪咲のシャツが、雨に少し濡れていた。
それが、七月の空気に溶け込んでいて、
まるで、どこか遠くの海の色みたいだった。

第8章:祖母の畑と、朝の匂い

日曜日の朝。
凪咲はまだ暗いうちに目を覚ました。

台所では、祖母が味噌汁を温めていた。
祖母は昔から、凪咲にだけ優しい。
けれどそれは“特別”というより、“気遣い”に近いものだった。

母は、すでに妹を連れて町内の清掃活動に出かけたあとだった。
叔母はソファで化粧雑誌をめくりながら、
「日曜ぐらい寝かせてよ」とひとりごちていた。

祖父は新聞を読んでいたが、
「女の子は愛想よくせんとな」と、また言った。
凪咲は、何も言わなかった。


その日、祖母と一緒に畑に行った。
祖母は、裏の山際に小さな家庭菜園を持っている。

「ナスがええ色になったけえ、見てごらん」

祖母は、土に膝をついて手を動かしながら、
ぽつぽつと話を続けた。

「凪咲、おまえ、最近よう黙っとるね。
……学校で、何かあったんか?」

凪咲は、しばらく黙ったあと、小さく答えた。

「……何もないよ」

祖母はうなずいて、ナスを手に取った。

「何もない言うて、何かある顔じゃった。
でもな、黙っとるんもええよ。
人間、しゃべらんで済むこともあるけえな」

そう言って、祖母は笑った。
歯が何本か抜けたその笑顔は、
なぜだかとても、あたたかかった。


畑の帰り道、凪咲は思い出していた。
あの日、坂の途中で聞いた新の言葉。

「俺は、君が黙っていても、そばにいるよ」

信じたいと思った。
けれど、信じることが、どれほど怖いかも、彼女は知っていた。


昼過ぎ、家の廊下で妹が泣いていた。
何かをこぼしたらしく、母に叱られたようだった。

その声を聞いていた祖父が、ため息混じりに言った。

「ほんま、女はすぐ泣きよるけんいけん」

凪咲は、立ち上がって言った。

「……泣いてもいいじゃん」

祖父が少し驚いた顔をした。

「泣くのが悪いんじゃない。
黙って、我慢して、何も言えんようになるほうが……ずっと、つらい」

家の空気が、少し止まった。

祖母がそっと台所から顔を出し、
「よう言うた」と、小さく言った。

そのひと言が、凪咲の心に、小さな灯りをともした。


その夜、机の引き出しを開けると、
新からもらった小さな地図帳が入っていた。

彼の描いた“海のある町”たち。
その端に、凪咲は鉛筆でそっと線を引いた。

広島湾の小さな港、坂の途中の校門、
そして、あの堤防――

彼の世界の中に、自分の“居場所”を描き加えるように。

第9章:遠雷と、沈黙のリズム

八月に入ったというのに、広島の空は落ち着かなかった。
朝には蝉の声がうるさいほど響いても、午後には遠くの山から雷鳴が聞こえてくる。

不安定な天気は、どこか心の中にも影を落とす。


ある午後、教室の前でふたりの女子が話しているのが聞こえた。

「秋月さ、最近ちょっと調子乗ってない?」

「なんかさ、新と仲良くしてるの、見せつけてる感じ?」

――また始まった。

俺は通り過ぎようとしたが、胸の奥がざらついた。

放課後、図書館裏のベンチで凪咲と会ったとき、そのことを口にしてしまった。

「また、誰かが……変なこと言ってた。
お前のこと、“調子に乗ってる”ってさ」

凪咲の手が止まった。
本のページを開いたまま、しばらく動かずにいた。

「……言わなきゃよかった?」

俺がそう尋ねると、彼女はそっと閉じた本を膝に置いて、静かに言った。

「新は、私をどうしたいの?」

「どうしたいって……」

「“味方”でいたいの? “ヒーロー”になりたいの?
それとも、“私のことをわかってるつもり”でいたいだけ?」

その言葉は、予想していなかったほど鋭かった。

「……違う。ただ――」

「じゃあ、黙ってそばにいて。
それだけで、私は助かるんだよ」

俺は何も言えなくなった。

雷の音が、遠くで響いていた。
ふたりの間の沈黙が、それと重なって、妙に胸に響いた。


その夜、自分の部屋で地図帳を開いた。
これまでに描いたすべての町が、線でつながっているように見えた。

けれど、そこに凪咲の“町”だけが、まだ塗り残されている。

彼女はきっと、誰にも手を出されたくない部分を持っている。
それは痛みでできた境界線のようなものだった。

俺は、その境界を越えたかったわけじゃない。
ただ、隣に座っていたかっただけなのに――

それすらも、間違いだったのかもしれない。


翌日、教室で凪咲と目が合った。
彼女は何も言わず、いつものように窓の外を見ていた。

でも、ふとした瞬間に、少しだけ視線が揺れて、
それが、こちらに向きかけた。

――けれど、すぐに逸らされた。

“距離”は、ふたたび戻っていた。

第10章:潮風と、君の声

夏休みが終わる前日、港町は久しぶりに晴れた。
雲ひとつない空に、白いカモメがゆっくりと旋回している。

昼過ぎ、俺はひとりで海沿いを歩いていた。
小さな堤防、ギターの音が聞こえたあの場所。
あの日の夕暮れの匂いが、どこか残っている気がした。

ふと、風に髪を揺らしながら、凪咲が立っていた。

制服ではなく、白いワンピース。
まるで、あの日の記憶がそのまま立ち上がってきたようだった。

「……来たんだ」

彼女がそう言った。

「来るよ。君がいると思ったから」

俺は静かに言った。

「夏が終わるね」

凪咲が、海の方を見ながら言った。

「うん。でも、終わるだけじゃない気がする。
何かが、始まる前の……余白みたいな時間」

潮風が吹いた。
ふたりのあいだに、長い沈黙が流れた。

けれど、それはもう重たくなかった。


「前に、言ったよね。
“俺は、君が黙っていても、そばにいる”って」

彼女は、うなずいた。

「今でも、そう思ってる。
たぶん俺は、君の“声”を聞こうとしてた。
でも、“声”って、言葉だけじゃないんだなって気づいた」

凪咲は、少しだけ目を伏せて笑った。

「……じゃあ、今の私にも聞こえてる?」

「何が?」

「君の“声”が」

俺は、彼女の目を見て、答えた。

「聞こえてるよ。ちゃんと、ずっと」


海の匂いが濃くなった。
潮が満ちる音と重なって、彼女が言った。

「来年、私、東京の大学に行くつもり」

「……そうなんだ」

「逃げたいわけじゃない。ただ、少しでも遠くで、自分を見たい。
誰かの声じゃなくて、自分の声を――」

俺はうなずいた。

「君の地図には、ちゃんとその場所が描かれてるんだな」

「うん。描いてくれたの、あなただけだったよ」

そう言って、彼女は小さな手帳を差し出した。
俺の地図帳だった。
数ページ、彼女の手で描き加えられていた。

堤防のある港町、坂道、古い駅舎、そして――
ふたりで歩いた、いくつもの“沈黙”。

それらが、小さく、丁寧に、鉛筆で刻まれていた。


「ねえ、新」

「ん?」

「あなたの声も、ちゃんと、私の中に残ってるよ。
言葉じゃなくても。
目をそらしてしまっても。
たくさん、揺れてしまっても」

風が吹いた。

海が、呼吸しているようだった。


ふたりは並んで堤防に座り、何も言わずに、
ただ遠くの水平線を見つめていた。

沈む夕陽が、雲を赤く染めていく。

そして、その沈黙のなかに、
確かに――君の声があった


『潮風と、君の声』完

【あとがき】

凪咲と新、ふたりの関係に決着をつけるような大きな事件は起きません。

でも、日々のなかで交わされる沈黙、ふとした視線、雨の日の傘。それらすべてが、“声”だったと思うのです。

この物語が描いたのは、派手な恋でも、運命的な出会いでもありません。

ただ――確かに“そこにあった”感情の記録です。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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