まえがき
この物語は、派手な銃撃戦も、劇的な事件もありません。
かわりに、静かで、じわじわと重たく、組織の内部に広がる「不条理」と「影」を描いています。
人間の曖昧さ、組織の歪み、表と裏の顔――そういった“見えにくいもの”に焦点を当てました。
事件の真相は最後の最後まで見えません。
誰を信じ、何を疑い、どう生きるのか。
不完全なまま生き続ける「人間」の姿を、AI刑事シリーズとしてじっくり描いています。
派手さはありませんが、読了後、心の奥にひっそりと何かが残れば幸いです。
目次
登場人物一覧
■ 堀田 啓介(ほった けいすけ)
警視庁 捜査一課・ベテラン刑事
叩き上げで現場肌、冷静な観察眼と皮肉な口調が特徴。
組織内の不条理や腐敗を嫌うが、完全には割り切れずに葛藤を抱える。
■ AI刑事 K1(ケイワン)
警視庁 特別捜査支援AIユニット
人間に酷似した外見を持つ、次世代AI捜査官。
論理的で感情の起伏は少ないが、次第に“人間らしさ”を学習していく。
堀田とはバディ的な関係。
■ 橘 沙耶(たちばな さや)
全国紙・社会部若手女性記者
警察内部の情報に食い込み、組織の歪みに迫る。
表情は柔らかいが、内面には強い正義感と探求心を持つ。
物語後半、意外な立ち位置が浮かび上がる。
■ 柳瀬 智樹(やなせ ともき)
警視庁 警務部 情報管理課・課長補佐
頭脳明晰で組織内のデータ管理を担うエリート。
一見、真面目で冷静だが、物語終盤で意外な過去と行動が明らかになる。
静かに組織の“影”を操る存在。
■ 望月 浩一(もちづき こういち)
警視庁 警務部 人事課・課長
温厚で控えめな性格を装っているが、組織内の裏事情に通じるキーパーソン。
影の人事リストの存在を知る。
■ リョウ
情報屋・元システム技術者
都内の裏社会に通じ、橘沙耶と接触する謎めいた男。
警察内部のデータ操作に関与した過去がある。
表向きは飄々としているが、物語の核心に近づく人物。
■ 組織の“影”
物語を通じて具体的な輪郭を見せず、情報改ざん・記憶操作・人事の歪みに関与。
最終章で柳瀬の意外な立場が示唆され、完全な善悪が存在しない複雑な真相が浮かび上がる。
第1章 記録の空白
警視庁本庁舎、その奥まった一角にある人事課は、まるで静まり返った水槽のようだった。
外の世界の喧騒は、この厚い壁と曇りガラスの向こうには届かない。
警察という巨大組織の中でも、こと“人事”という分野は、特に息苦しい沈黙が支配している。
堀田啓介は、その静寂の中で、タバコでも咥えたくなる衝動を堪えながら、薄い書類をめくった。
「消えた」のは、今年度の採用志望者リスト。
正式な選考が終わり、内々の配置案までまとめた段階で、そのリストがごっそり、電子データごと“空白”になったという。
「まるで、最初から存在しなかったみてぇだな」
堀田のつぶやきに、隣のAI刑事K1が無表情で応じた。
「データ消去の痕跡はありません。操作ログも消されている。つまり、技術的に極めて高度な内部改ざんが行われた可能性があります」
「内部、か」
堀田は人事課の職員たちを、壁越しにぼんやりと眺めた。
誰もが、整った背広に、形ばかりの表情を貼りつけている。
その無表情な群れの中で、何かが音もなく狂い始めていることを、彼は本能的に察していた。
**
会議室に戻ると、柳瀬智樹が資料を手に待っていた。
警務部・情報管理課所属。性格も容姿も角がなく、どこにでもいる“模範的な警察官”の顔をしている。
「リストが消えた件、組織の外には出せません」
柳瀬の言葉は、まるで冷えた水がコップを満たすように、静かに場の空気を湿らせた。
「情報漏洩と違って、今回は内部で“消えた”。扱いが難しい」
「いや、もっと質が悪い」
堀田は低く言った。
「情報が漏れたなら、外に敵がいる。でも、消されたってことは、敵はこの“水槽”の中にいる」
柳瀬は沈黙したまま、資料に視線を落とす。
**
後日、堀田とK1は内部調査を開始した。
警視庁の廊下は、冬の海沿いの遊歩道のように冷たく乾いている。
誰もが無駄口を叩かず、足音だけが妙に響く。
「内部の誰かが意図的に消したと考えるのが自然だ」
K1が分析を淡々と続ける。
「組織への不満、個人的な報復、あるいは――」
「“選別”か」
堀田は、乾いた喉を潤すように小声でつぶやく。
「消えたリストの中には、誰が残り、誰が消されたか、それを知るのは内部だけだ」
K1の目が、わずかに光を帯びた。
「動機は、不明瞭なままです」
堀田は、自販機のブラックコーヒーを手に取りながら、遠くを見つめた。
「警察の内部ほど、不条理が渦巻く場所はねぇからな」
**
日が暮れた警視庁の外では、冷たい雨が降り始めていた。
アスファルトを濡らす雨粒が、まるで消えたデータの断片のように、音もなく地面に吸い込まれていく。
堀田は傘も差さずに歩き出した。
この空白の始まりは、ほんの氷山の一角に過ぎない。
だが、水面下で膨らんでいる“何か”の影は、すでに足元まで忍び寄っていることを、彼は薄々感じていた。
(第1章・了)
第2章 沈黙の壁
警視庁本庁舎の五階、北側の廊下は、冬の川沿いの堤防のように冷たく、湿気のない乾いた空気が張り詰めていた。
堀田啓介は、警務部人事課の扉の前に立ち、ポケットの中でタバコの箱を探りながらため息をついた。
結局、禁煙が徹底されたこの建物で火を点けることはできない。
代わりに、ポケットの中で指先をこすり合わせる。
隣に立つAI刑事K1は、無表情のまま廊下を見渡していた。
「この空気、相変わらずだな」
堀田の独り言に、K1が淡々と返す。
「沈黙が支配する空間です。外部への情報流出を防ぐため、職員同士の雑談すら制限されています」
「人間、喋れなくなりゃ、余計に考え込むもんだ」
堀田は、重たい扉を押した。
**
人事課の室内は、まるで冷蔵庫のようだった。
整然と並ぶデスク、無駄のないファイル、そして、張りついたような表情の職員たち。
目を合わせても、会話は生まれない。
「例のリスト、誰かが見たって話は?」
堀田の問いかけに、担当の係長・望月浩一が、表情を崩さぬまま答える。
「そんな話は、ありません」
その声には、よく磨かれた金属製の器具のような硬さと冷たさがあった。
堀田は資料をめくりながら、K1と目を合わせる。
「不自然なほど、全員が口を閉ざしてる」
K1が静かに頷く。
「組織内の不祥事を外部に漏らせば、処分対象です。誰も、リスクを冒さないでしょう」
堀田は、心の中で皮肉な笑いを浮かべた。
組織という名の“壁”は、時に堅牢すぎて、中から腐っていくことがある。
**
昼休み、堀田は庁舎裏の非常階段で缶コーヒーを飲んでいた。
遠くに、街の雑踏とクラクションの音が微かに聞こえる。
K1が階段の影に立ち、手のひらサイズの端末を操作している。
「内部ネットワークの監視記録を解析しました。ログの空白部分があります」
「例の、リストが消えた時か」
「正確には、その前後数分間です。誰かが意図的にシステムを遮断し、痕跡を消しています」
堀田は、手すりにもたれたまま空を見上げた。
雲が低く、重たく垂れ込めている。
まるで、この組織の空気をそのまま閉じ込めたような、鈍い灰色だ。
「敵は、壁の内側にいる」
K1が無機質な声で繰り返した。
**
夕方、堀田とK1は再び情報管理課に向かった。
柳瀬智樹が、端末の前で淡々と作業している。
「システム遮断の痕跡は、ごまかせません。だが、内部の誰が操作したのかは断定できない」
柳瀬の声には、まるで防波堤に打ち付ける波のような、一定の冷たさがあった。
堀田は、壁際の掲示板に目をやった。
そこには、来月の人事異動の予告が貼られている。
名前の羅列。だが、その並びには、微かな“意図”が透けて見える気がした。
「これも、誰かが選別してるってわけか」
堀田のつぶやきに、柳瀬はわずかに眉を動かした。
「警察の人事は、組織防衛の最前線です」
「防衛のためなら、記録も消すか」
堀田は、空になった缶コーヒーを軽く握りつぶした。
この組織の“壁”は、表面だけを見ていても、何も見えない。
静かな空気の下で、確実に“何か”が歪んでいる。
**
夜、堀田は庁舎を出た。
ビルの谷間に冷たい風が吹き抜ける。
K1が隣に並び、端末を閉じた。
「これから、どう動きますか」
堀田は、タバコの代わりに深く息を吸い込んだ。
「壁を壊すのは難しい。だが、壁の“影”なら、踏み込めるかもしれねえ」
冷えた空気の中、二人の影が地面に伸びていた。
沈黙の壁。その向こうに、何が潜んでいるのか、まだ誰も知らなかった。
(第2章・了)
第3章 仕掛けられた席順
人事異動の内示が出た日、警視庁本庁舎の廊下は、冬の港町のように乾ききった緊張で満たされていた。
堀田啓介は、掲示板の前に立ち、紙に並んだ名前を目で追った。
整然と、無機質に並ぶ文字の羅列。だが、その配列には、かすかな歪みがあった。
「わざとだな」
堀田の低い独り言に、隣のAI刑事K1が無表情で応じる。
「意図的な操作の可能性が高い。配置順に、偏りがあります」
「配置順か」
堀田はタバコの箱を指で弄りながら、掲示板の端を撫でた。
そこには、目立たぬように追加された小さな紙片が貼られている。
異動対象外のはずの職員の名前が、そこにひっそりと記されていた。
**
午後、情報管理課。
柳瀬智樹が端末を操作しながら、無駄のない声で言った。
「異動リストの操作は、通常は情報管理課の権限外です。だが、何者かが内部システムに干渉し、微細な“席順”の変更を施しています」
「席順ってのは、ただの物理的な並びじゃねえ」
堀田は、机の上に広げた紙を軽く叩く。
「名前の順番は、組織の“力学”そのものだ」
組織という巨大な船の上では、誰がどこに立ち、誰が日陰に追いやられるか、それだけで生き死にが決まることがある。
それは、ただの配置ではなく、静かな宣告だ。
**
その夜、橘沙耶は都内の安い居酒屋で、情報屋のリョウと対面していた。
リョウは、飄々とした笑みを浮かべながら、グラスの氷を転がしている。
「警察の内部異動なんて、外野には関係ない話だろ?」
リョウの言葉に、橘は微かに眉を寄せた。
「“席順”を操作できる奴がいる。なら、その背後には必ず意図がある」
リョウは、氷を口に含みながら、視線を外した。
「意図ってのは、大体がつまらないもんだよ。私怨、嫉妬、出世争い」
「それが、誰かの人生を壊すこともある」
橘の声は、静かだが硬い響きを帯びていた。
リョウは笑みを消し、しばし沈黙した。
**
警視庁、深夜。
堀田とK1は、消灯したオフィスの中で端末を覗き込んでいた。
「異動リストの改ざん部分、特定完了。だが、操作ログは痕跡を消されています」
K1が分析結果を表示する。
「操作できる人物は限られる。だが、誰も表立っては動いていない」
堀田は、遠くを見つめた。
この組織の“水面”は、静かすぎる。
だが、その下では、見えない“手”が確実に水をかき混ぜている。
**
翌朝、庁舎前。
冬の曇天の下、橘が堀田に声をかけた。
「席順が変わったことで、警務部内部で微妙な軋轢が生まれてます」
堀田はコーヒー缶を片手に、ぼんやりと空を見上げた。
「たった一つ、名前の並びが変わるだけで、組織ってのは、簡単に歪む」
K1が静かに補足する。
「不規則な配置は、次第にシステム全体を不安定化させます」
堀田は、コーヒーを飲み干し、缶を握りつぶした。
「まるで、ジグソーパズルの最後のピースが、意図的に削られてるみてぇだな」
誰が、何のために、その“欠け”を作ったのか。
その答えは、まだ霧の中だった。
(第3章・了)
第4章 微細な誤差
警視庁本庁舎の情報管理課。そこは、組織の“心臓”ともいえるデータ中枢だった。
だが、その“心臓”には、わずかな雑音が入り込んでいた。
堀田啓介は、モニターに映る膨大なログデータを前に、コーヒーのカップを握りしめた。
「誤差ってのは、普通なら気づかねえ。でもな、積み重なりゃ、組織の“心拍”だって乱れる」
AI刑事K1が無機質な声で補足する。
「ログの時刻に、ミリ秒単位のズレが検出されています。通常では生じない“微細な誤差”です」
柳瀬智樹が、沈んだ表情で資料を見つめていた。
「誰かが、情報中枢に“指先”を入れてる。だが、証拠としては不十分だ」
堀田は、カップを置き、低くつぶやいた。
「完璧な不正なんて存在しねえ。必ず、何かが“はみ出す”」
**
夜、庁舎の屋上。
冷たい風が、古びたパイプを震わせる音が響いていた。
堀田とK1が、並んで夜景を見下ろす。
「人事リストの改ざん。ログの微細な誤差。全部、同じ“手”の仕業か」
K1が静かに応じる。
「現段階では断定できません。ただ、複数の痕跡が同時期に集中しています」
「なら、組織の中に、誰かが“いる”」
堀田は、曇った夜空を見上げた。
重たく垂れ込めた雲は、まるで警視庁そのものだった。
外からは見えない。だが、中では、確実に何かが蠢いている。
**
翌朝。
橘沙耶は、自宅のノートパソコンで情報を整理していた。
SNS、内部通報、匿名掲示板。あらゆる情報を掘り起こし、微細な共通点を探す。
その中で、ある“ズレ”に気づいた。
「内部文書の日付が、微妙に食い違ってる……」
わずか数秒の誤差。だが、組織のシステムが正確なら、本来、そんな誤差は生まれない。
橘は、震える指先でキーボードを打った。
「誰かが、時刻そのものを操作してる……?」
背筋に冷たいものが走る。
時間を操る。それは、組織の“記憶”をねじ曲げることに等しい。
**
警視庁、情報管理課。
柳瀬が、データをスクリーンに映し出す。
「改ざんは、高度かつ慎重だ。だが、完全ではない。ログに残った“微細な誤差”が、その証拠だ」
K1が解析を続ける。
「誤差の生じた時刻。内部アクセス権を持つ者に限定できます」
堀田は、職員リストに目を走らせた。
「なら、容疑者は絞れるってわけだ」
だが、その中に、これまで顔を合わせたことのある人物たちの名が並んでいる。
望月浩一、人事課長。柳瀬智樹、情報管理課。
そして、意外な名前もそこにあった。
「……リョウ?」
堀田は眉をひそめた。
「情報屋のリョウが、内部アクセスできるわけが……」
K1が淡々と告げる。
「リョウは、過去に警察関連のシステム開発に関与していました。完全に外部とは言い切れません」
堀田は、遠くを見つめた。
“壁”の外にも、手を伸ばせる者がいる。
この組織の“心拍”は、見えない手にかき乱されている。
そして、微細な誤差が積み重なる先に、必ず“破綻”が待っている。
**
夜、堀田は雨に濡れた歩道を歩いた。
頭上の街灯が滲み、舗道の水たまりに歪んだ光が揺れている。
「誤差が広がりゃ、現実そのものが歪む」
堀田はそうつぶやき、足元の影を踏みつけた。
この街の静けさの裏に、確実に何かが潜んでいる。
それを暴くには、まだ時間が必要だった。
(第4章・了)
第5章 耳鳴りのする廊下
警視庁の五階、北側の廊下を歩くと、時折、耳の奥がキンと鳴るような気がした。
音ではない。だが、皮膚の下を細い針が這うような、そんな不快な感覚が確かに残る。
堀田啓介は、その廊下をゆっくりと歩いていた。
壁は清潔で、床は磨かれている。だが、空気は澱んでいる。
まるで、ここだけが時間から切り離された別世界のようだった。
AI刑事K1が、無表情のまま横に立つ。
「気圧、気温、湿度、すべて正常範囲です」
「そういう問題じゃねえ」
堀田は足を止め、耳の奥を軽く指で押さえた。
「この廊下、誰かの“気配”が残ってる」
**
情報管理課の前、柳瀬智樹が端末を操作していた。
「誤差の生じたログ、さらに絞り込みを進めています。ただし、内部からの協力は期待できません」
柳瀬の声は、冷たく、どこか諦めた響きを帯びている。
堀田は、廊下に視線を向けた。
「内部ってのは、いつだって、外よりタチが悪い」
K1が補足する。
「組織内の不信感は、情報隠蔽と沈黙を生みます」
堀田は、天井を見上げた。
白い蛍光灯の光が、微かに揺れている。
誰かが、組織の“骨組み”を密かに揺さぶっているような錯覚。
「耳鳴りは、気のせいじゃねえ。組織そのものが、きしんでる」
**
その夜、橘沙耶は、都内の安いカフェで資料を整理していた。
被害者はいない。事件性も薄い。
だが、警察内部で、何かが静かに狂い始めている。
橘は、ノートパソコンの画面に目を凝らした。
「リストの改ざん、ログの誤差、歪んだ席順」
全てが、偶然では済まされない。
ふと、耳の奥で“キン”という微かな音が響いた。
橘は背筋を伸ばし、周囲を見渡した。
店内は静かだ。だが、その静けさが逆に、不自然なほど耳にまとわりつく。
「組織の“壁”の向こうで、何かが動いてる」
橘の指が震える。
**
翌日、庁舎の廊下。
堀田とK1は、情報管理課前の壁際に立っていた。
「廊下に監視カメラは?」
堀田の問いに、K1が答える。
「設置されています。ただし、過去数日の映像に“隙間”があります」
「またか」
堀田は、壁に手を当てた。
表面は冷たく、滑らかだ。だが、その奥には、確実に“何か”がある。
「この廊下、表と裏の顔がある」
K1の目が、微かに光る。
「裏側を、暴きますか」
堀田は、軽く頷いた。
**
深夜、情報管理課のサーバールーム。
冷気が漂い、静寂が支配する空間。
K1が端末を操作し、隠されたアクセスログを呼び出す。
「内部アクセス、特定の時間帯に集中」
堀田は、画面に映る名前を見た。
望月浩一――人事課長。
だが、その隣には、もう一つ、意外な名前が並んでいる。
「……橘沙耶?」
堀田は、目を細めた。
「内部の記者が、どうして?」
K1が静かに答える。
「取材目的か、あるいは」
堀田は、再び廊下に目を向けた。
耳の奥で、また“キン”という音が微かに響く。
この耳鳴りは、単なる生理現象じゃない。
組織の“壁”が、崩れかけている合図だった。
(第5章・了)
第6章 影の人事
警視庁人事課のフロアには、目に見えない“空気の層”が存在していた。
その層を破らずに歩くには、呼吸すら加減しなければならない。
堀田啓介は、無言でフロアの奥へと進んだ。
書類棚、パーテーション、整然と並ぶ机――すべてが規律正しく、整っている。だが、その“整いすぎた風景”こそが、この組織の歪みの証だった。
人事課長、望月浩一がデスクに座り、淡々と書類をめくっている。
「課長、少し時間を」
堀田の声は低く、だが強い響きを帯びていた。
望月は、わずかに顔を上げる。
その表情は、よく磨かれた金属のように無表情で、反射すらしない。
**
面談室。
堀田と望月、AI刑事K1が向き合う。
「影の人事リスト、見たことがあるか?」
堀田の問いに、望月はわずかに眉を動かした。
「噂なら、聞いたことがある」
「噂じゃねえ、実際に存在する。名前の順番を変えるだけで、人間の人生は簡単に転がる」
望月は静かに椅子にもたれた。
「人事は、組織を守るための“配置”だ。そこに感情は介在しない」
堀田は、ポケットから紙片を取り出した。
そこには、極秘扱いの内部資料。
異動リストの“裏版”とも言える、選別された名前の並び。
「この順番、意図的に仕組まれてる。お前が関与してないなら、誰がやった?」
望月は答えない。ただ、冷たい視線を返すだけだ。
**
庁舎の非常階段。
堀田とK1が並び、外の曇天を見上げていた。
「影の人事、誰かが裏で糸を引いてる」
K1が、端末を操作しながら言う。
「操作ログの“誤差”を辿れば、関与者を特定できる可能性があります。ただし、内部の協力が必要」
「だが、内部は信用できねえ」
堀田は、灰色の雲を見つめながらつぶやいた。
「この組織は、表と裏、二重に出来てる。誰がどこに立ってるのか、見た目じゃわかんねえ」
**
夜、橘沙耶は再びリョウと接触していた。
居酒屋の奥、誰もいない半個室。
リョウは、グラスを転がしながら笑った。
「影の人事?そんなの、どこにでもある」
「警察内部で、そんなことが許される?」
橘の声は低いが、鋭さを含んでいる。
リョウは目を細めた。
「正義だとか公平だとか、そんなもんは表向きの飾りだ。組織の裏には、必ず“影”がいる」
橘は、拳を握りしめた。
「でも、私は暴きたい。その“影”を」
リョウは、氷を口に含んだまま微笑んだ。
「暴けるものなら、な」
**
深夜、堀田は庁舎の資料室にいた。
手元には、古い異動リスト。そこには微細な“ズレ”が積み重なっている。
K1が静かに言う。
「人為的な操作、確実です。だが、痕跡は消されつつある」
堀田は資料を閉じ、ため息をついた。
「影は、光の中には現れねえ」
だが、影があるということは、どこかに“光源”がある。
その光を見つけなければ、組織の“裏側”は暴けない。
静かな警視庁の廊下に、堀田の足音だけが、乾いたリズムを刻んでいった。
(第6章・了)
第7章 曖昧な記憶
警視庁の地下階、サーバールームは、外の世界と切り離された無音の空間だった。
人工的な冷気が漂い、電子機器のわずかな駆動音だけが響いている。
堀田啓介は、薄暗い室内に立ち尽くしていた。
目の前の端末には、異動リスト、ログデータ、アクセス履歴――膨大な情報が映し出されている。
だが、そのどれもが、どこか“歪んで”いた。
「曖昧だな」
堀田のつぶやきに、隣のAI刑事K1が応じた。
「記録の整合性に、微細な矛盾があります。通常のデータ改ざんとは異なる」
堀田は、モニター越しに虚空を見つめた。
「まるで、人間の“記憶”みてぇだ」
人の記憶は、正確なようでいて、案外あやふやだ。
都合の悪い部分は曖昧にし、見たいものだけを鮮明に残す。
この組織のデータも、誰かの“都合”で、意図的に曖昧にされている。
**
その夜、橘沙耶は、自宅の部屋でノートパソコンを開いていた。
異動リスト、関係者の証言、内部文書。
だが、どれを重ねても、確信に至らない。
まるで、霧の中を手探りで進んでいるようだった。
ふと、幼い頃の記憶がよみがえる。
小学校の頃、教室で聞いた“人事異動”の噂話。
当時は意味も分からず、大人たちが名前の順番で右往左往する様子を不思議に眺めていた。
「結局、大人になっても変わらない」
橘はつぶやき、ノートに手書きで情報を整理する。
曖昧な記憶、歪んだ情報、その隙間に、真実は潜んでいる。
**
翌朝、庁舎の廊下。
堀田とK1が、情報管理課前に立っていた。
柳瀬智樹が資料を手に、やや疲れた様子で近づいてくる。
「内部の職員の証言、バラバラだ」
柳瀬の声は乾いている。
「同じ時間、同じ場所のはずが、記憶にズレがある。まるで、誰かが“記憶”ごといじってるみてぇだ」
K1が淡々と補足する。
「情報干渉の可能性は否定できません。ただし、物理的証拠は不十分」
堀田は、ポケットに手を突っ込み、視線を落とした。
「人間の記憶なんて、最初から曖昧なもんだ」
だが、その曖昧さを逆手に取る者がいる。
誰かが、意図的に記憶を歪め、事実を曖昧にし、組織の“真実”を見えなくしている。
**
夜、リョウと再び接触した橘。
リョウは、カフェの隅でコーヒーをすすりながら、意味ありげな笑みを浮かべた。
「人間なんて、記憶を改ざんしながら生きてる」
「自分に都合よく、過去を書き換える」
橘は、リョウの目をじっと見据えた。
「その裏で、誰かが意図的に事実を消せば、全部ごまかせる」
リョウは、目を細める。
「そういう“歪み”が、この街の空気を作ってる」
**
警視庁の屋上。
堀田とK1が、ビル群の夜景を見下ろしていた。
「記憶が曖昧なら、現実だって曖昧になる」
堀田の声は低く、かすかに苦味を含んでいる。
K1が静かに言った。
「曖昧な現実は、不安定です。だが、人間はその“不安定さ”に慣れています」
堀田は夜空を見上げた。
鈍く重たい雲が、街を覆っている。
その向こうには、まだ見えない“真実”が潜んでいるはずだった。
(第7章・了)
第8章 疑念と確信の狭間
冬の東京は、曇天が張り付いたまま動かず、街全体が一枚の薄いガラス越しに見えているようだった。
警視庁本庁舎、そのガラスの内側では、見えない“亀裂”が静かに広がっていた。
堀田啓介は、情報管理課のモニターを見つめながら、深く息を吐いた。
異動リストの改ざん、ログの誤差、曖昧な記憶――
事実は、点でしか存在せず、その点と点をどう結ぶかは、結局のところ人間の“思い込み”に委ねられる。
「疑念と確信の境目ってのは、紙一重だな」
隣でAI刑事K1が、冷静に答える。
「判断の基準は、証拠の有無。だが、証拠自体が操作された場合、確信は成立しません」
堀田は、資料を手に廊下へ出た。
その足元で、床がわずかにきしんだ気がした。
**
庁舎の面談室。
柳瀬智樹が、机に書類を並べ、堀田と向き合う。
「望月人事課長、内部アクセスの痕跡は確かにある。ただし、直接的な証拠はない」
柳瀬の声は乾いている。
まるで、濡れていない冬のアスファルトのように、硬く、滑らかで、だが冷たい。
堀田は目を細めた。
「内部の誰かが操作したのは間違いねえ。だが、誰かを決めつけりゃ、そこに“確信”が生まれる。下手すりゃ、それが誤解の温床になる」
柳瀬は、静かに言った。
「私は組織の中で生きてる。その“温床”に、何度も足を取られた」
堀田は、その言葉を反芻しながら、ゆっくり席を立った。
**
その夜、橘沙耶は都内のビルの一室で、リョウと再び対峙していた。
「疑念と確信の狭間に、人は揺れる」
リョウの言葉は、まるで湿った冬の風のように、じわじわと橘の皮膚にまとわりつく。
「真実なんて、簡単に信じたほうが楽だ。でも、それは危うい橋を渡るのと同じ」
橘は、手元のノートを閉じた。
「でも、私は確かめたい。誰が、どこで、何を操作してるのか」
リョウは、薄く笑った。
「知るほどに、余計にわからなくなるのが“真実”さ」
**
翌朝、堀田とK1は、情報管理課のサーバールームで再分析を続けていた。
「操作ログ、さらに絞り込みました。望月課長以外に、微弱なアクセス記録」
K1がスクリーンに映す。
そこに浮かぶのは、橘沙耶の名前。
「またか」
堀田は、苦い表情でつぶやく。
「橘が、内部の操作に関与してる?」
「確証はありません。ただし、疑念は濃厚」
堀田は、静かに廊下へ出た。
曇った窓の外、鈍い光が差し込んでいる。
人は、確信にすがりたがる生き物だ。
だが、今、この組織で確かなものは、一つもない。
疑念と確信の狭間を、誰もがふらつきながら歩いている。
(第8章・了)
第9章 輪郭なき犯人
曇天の東京は、まるで厚手のベールを被せられたように、街の輪郭をぼやけさせていた。
そのベールは、警視庁の内側にも広がっている。
堀田啓介は、情報管理課の廊下をゆっくりと歩いていた。
誰の顔も見えず、気配だけが鈍く漂っている。
輪郭が曖昧なまま、犯人の影だけが、この組織の“内側”を這い回っている。
**
庁舎の会議室。
堀田、AI刑事K1、柳瀬智樹、橘沙耶がテーブルを囲む。
K1が端末を操作し、分析結果を映し出す。
「ログ改ざん、席順操作、内部情報の歪曲。複数の関与者の可能性があります」
「誰が黒か、まだ断定できねえってことか」
堀田の声は低く、かすかに苦味を含んでいる。
柳瀬が表情を曇らせたまま言った。
「輪郭が見えない。だが、組織の内部に、確実に“手”が伸びてる」
橘が、資料を手にしながら言葉を続ける。
「記憶は曖昧、証言は食い違い、データは歪められたまま」
堀田は、天井を見上げた。
この建物そのものが、巨大な“迷路”に思えてくる。
**
その夜、堀田はK1と非常階段に立ち、ビル街の霞んだ夜景を眺めていた。
「犯人の輪郭が見えねえ」
堀田はつぶやいた。
K1が静かに応じる。
「輪郭を見せないことが、犯人の“術”です」
堀田は、曇った夜空を見つめた。
「人間ってのは、見えないもんに一番惑わされる」
**
深夜、橘は単独で資料室に入り、内部文書を確認していた。
その最中、背後から微かな気配を感じる。
振り返るが、誰もいない。
だが、確かにそこに“誰か”が立っていたような気配が残っている。
輪郭のない犯人が、すぐ傍にいる――
そう思わせる、粘つくような空気だけが残っていた。
**
翌朝。
庁舎の中庭、堀田と柳瀬が言葉を交わす。
「お前、まだ自分の“内側”疑ってんのか?」
柳瀬は目を伏せた。
「私は、この組織の一部だ。その一部が腐っているなら、自分も例外じゃない」
堀田は、冷えた缶コーヒーを飲み干した。
「お前だけじゃねえよ。ここにいる誰もが、何かしら“腐敗”を抱えてる」
**
情報管理課のモニターに、わずかな異常が映る。
K1が解析する。
「不正アクセス、再確認。だが、発信源の特定は困難」
堀田は、画面を見つめた。
「犯人の輪郭が見えない。でも、確実に“ここ”にいる」
静かな庁舎の空気の中、目に見えない“影”だけが、組織の奥底でうごめき続けていた。
(第9章・了)
第10章 沈黙の代償
警視庁の廊下は、夜になると、まるで病室のように静まり返る。
誰もが必要以上に声を潜め、足音だけが乾いた音を刻む。
堀田啓介は、情報管理課の端末前に立ち尽くしていた。
操作ログ、異動リスト、歪められたデータ――
その全てが、今、一つの“線”で繋がり始めていた。
AI刑事K1が無表情で告げる。
「操作履歴、最終アクセス者、特定完了」
堀田は、画面に映る名前を見た。
「……柳瀬、か」
静かに、だが確実に、その名が浮かび上がった。
**
面談室。
柳瀬智樹が、端正なスーツ姿のまま椅子に座り、薄い笑みを浮かべている。
「全部、君の仕込みだったわけだ」
堀田の声は低いが、荒れてはいない。
柳瀬は、少しだけ肩をすくめた。
「正確には、“全てではない”」
「言い逃れか?」
「違う。君も気づいていただろう」
柳瀬は、机に手を置き、視線を合わせた。
「この組織の中で、完全な善も、完全な悪も存在しない」
堀田は静かに頷いた。
「お前も、腐敗の一部を知ってた。でも、全部を暴けば、自分の立場も揺らぐ」
柳瀬の口元がわずかに緩む。
「だから、選んだ。必要な部分だけを“改ざん”し、必要な者だけを“消す”」
「それが、お前の“沈黙の代償”か」
柳瀬は、深く息を吸い込んだ。
「組織は、完全じゃない。その不完全さを補うために、時に“影”が必要なんだ」
堀田は、ポケットの中で指を組んだ。
「だが、その影に踏み込みすぎりゃ、誰かが消える」
柳瀬は静かに立ち上がった。
「私は、自分の“影”を消したつもりはない。ただ、歪んだ組織の“形”を整えただけだ」
**
夜、庁舎の屋上。
堀田とK1が並び、冷たい夜風を浴びている。
「柳瀬が犯人だった」
堀田は、乾いた口でつぶやいた。
K1が補足する。
「正確には、“完全な犯人”とは断定できません」
堀田は、夜空を見上げた。
「そうだな。お前の言う通りだ」
この組織には、まだ“影”がいる。
柳瀬だけではない。望月も、リョウも、橘すら、完全な白ではない。
人間は誰しも、不完全な“影”を抱えて生きている。
**
翌朝、庁舎の前。
曇り空の隙間から、微かな光が射し込んでいる。
堀田は、ポケットからタバコを取り出しかけ、思いとどまる。
「不条理な現実でも、今日を歩くしかねえ」
K1が隣で静かに頷く。
「沈黙の代償は、続く。ですが、人間は、その中でも生きていく」
堀田は、コートのポケットに手を入れたまま、歩き出した。
この街の輪郭は、曖昧なまま。
だが、その曖昧さの中で、人は今日も生きていく。
(完)
あとがき
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本作『沈黙の代償』は、AI刑事シリーズとしては異色の作品かもしれません。
銃も、死体も、暴力もほとんど登場しない。
けれど、確実に「何か」が壊れていく感覚が、この物語にはあります。
人は、誰しも“影”を抱えています。
それを直視せずに生きることもできる。
でも、いつか、その“影”の代償を払わされる瞬間が訪れるかもしれません。
私自身、日々の仕事や社会の中で、「組織の壁」「不条理」「曖昧な現実」を痛感します。
だからこそ、この物語を通じて、「曖昧な現実の中でも生きていくしかない」そんな人間の強さと弱さを描きたかったのです。
また次の作品でお会いできることを、楽しみにしています。
コメント