AI刑事 沈黙の代償 | 40代社畜のマネタイズ戦略

AI刑事 沈黙の代償

警察小説
Pocket

まえがき

この物語は、派手な銃撃戦も、劇的な事件もありません。
かわりに、静かで、じわじわと重たく、組織の内部に広がる「不条理」と「影」を描いています。

人間の曖昧さ、組織の歪み、表と裏の顔――そういった“見えにくいもの”に焦点を当てました。

事件の真相は最後の最後まで見えません。
誰を信じ、何を疑い、どう生きるのか。
不完全なまま生き続ける「人間」の姿を、AI刑事シリーズとしてじっくり描いています。

派手さはありませんが、読了後、心の奥にひっそりと何かが残れば幸いです。

目次

まえがき

登場人物一覧

第1章 記録の空白

第2章 沈黙の壁

第3章 仕掛けられた席順

第4章 微細な誤差

第5章 耳鳴りのする廊下

第6章 影の人事

第7章 曖昧な記憶

第8章 疑念と確信の狭間

第9章 輪郭なき犯人

第10章 沈黙の代償

あとがき

 

登場人物一覧

■ 堀田 啓介(ほった けいすけ)

警視庁 捜査一課・ベテラン刑事
叩き上げで現場肌、冷静な観察眼と皮肉な口調が特徴。
組織内の不条理や腐敗を嫌うが、完全には割り切れずに葛藤を抱える。


■ AI刑事 K1(ケイワン)

警視庁 特別捜査支援AIユニット
人間に酷似した外見を持つ、次世代AI捜査官。
論理的で感情の起伏は少ないが、次第に“人間らしさ”を学習していく。
堀田とはバディ的な関係。


■ 橘 沙耶(たちばな さや)

全国紙・社会部若手女性記者
警察内部の情報に食い込み、組織の歪みに迫る。
表情は柔らかいが、内面には強い正義感と探求心を持つ。
物語後半、意外な立ち位置が浮かび上がる。


■ 柳瀬 智樹(やなせ ともき)

警視庁 警務部 情報管理課・課長補佐
頭脳明晰で組織内のデータ管理を担うエリート。
一見、真面目で冷静だが、物語終盤で意外な過去と行動が明らかになる。
静かに組織の“影”を操る存在。


■ 望月 浩一(もちづき こういち)

警視庁 警務部 人事課・課長
温厚で控えめな性格を装っているが、組織内の裏事情に通じるキーパーソン。
影の人事リストの存在を知る。


■ リョウ

情報屋・元システム技術者
都内の裏社会に通じ、橘沙耶と接触する謎めいた男。
警察内部のデータ操作に関与した過去がある。
表向きは飄々としているが、物語の核心に近づく人物。


■ 組織の“影”

物語を通じて具体的な輪郭を見せず、情報改ざん・記憶操作・人事の歪みに関与。
最終章で柳瀬の意外な立場が示唆され、完全な善悪が存在しない複雑な真相が浮かび上がる。

第1章 記録の空白

警視庁本庁舎、その奥まった一角にある人事課は、まるで静まり返った水槽のようだった。
外の世界の喧騒は、この厚い壁と曇りガラスの向こうには届かない。
警察という巨大組織の中でも、こと“人事”という分野は、特に息苦しい沈黙が支配している。

堀田啓介は、その静寂の中で、タバコでも咥えたくなる衝動を堪えながら、薄い書類をめくった。
「消えた」のは、今年度の採用志望者リスト。
正式な選考が終わり、内々の配置案までまとめた段階で、そのリストがごっそり、電子データごと“空白”になったという。

「まるで、最初から存在しなかったみてぇだな」

堀田のつぶやきに、隣のAI刑事K1が無表情で応じた。

「データ消去の痕跡はありません。操作ログも消されている。つまり、技術的に極めて高度な内部改ざんが行われた可能性があります」

「内部、か」

堀田は人事課の職員たちを、壁越しにぼんやりと眺めた。
誰もが、整った背広に、形ばかりの表情を貼りつけている。
その無表情な群れの中で、何かが音もなく狂い始めていることを、彼は本能的に察していた。

**

会議室に戻ると、柳瀬智樹が資料を手に待っていた。
警務部・情報管理課所属。性格も容姿も角がなく、どこにでもいる“模範的な警察官”の顔をしている。

「リストが消えた件、組織の外には出せません」

柳瀬の言葉は、まるで冷えた水がコップを満たすように、静かに場の空気を湿らせた。

「情報漏洩と違って、今回は内部で“消えた”。扱いが難しい」

「いや、もっと質が悪い」

堀田は低く言った。

「情報が漏れたなら、外に敵がいる。でも、消されたってことは、敵はこの“水槽”の中にいる」

柳瀬は沈黙したまま、資料に視線を落とす。

**

後日、堀田とK1は内部調査を開始した。

警視庁の廊下は、冬の海沿いの遊歩道のように冷たく乾いている。
誰もが無駄口を叩かず、足音だけが妙に響く。

「内部の誰かが意図的に消したと考えるのが自然だ」

K1が分析を淡々と続ける。

「組織への不満、個人的な報復、あるいは――」

「“選別”か」

堀田は、乾いた喉を潤すように小声でつぶやく。

「消えたリストの中には、誰が残り、誰が消されたか、それを知るのは内部だけだ」

K1の目が、わずかに光を帯びた。

「動機は、不明瞭なままです」

堀田は、自販機のブラックコーヒーを手に取りながら、遠くを見つめた。

「警察の内部ほど、不条理が渦巻く場所はねぇからな」

**

日が暮れた警視庁の外では、冷たい雨が降り始めていた。
アスファルトを濡らす雨粒が、まるで消えたデータの断片のように、音もなく地面に吸い込まれていく。

堀田は傘も差さずに歩き出した。

この空白の始まりは、ほんの氷山の一角に過ぎない。

だが、水面下で膨らんでいる“何か”の影は、すでに足元まで忍び寄っていることを、彼は薄々感じていた。

(第1章・了)

第2章 沈黙の壁

警視庁本庁舎の五階、北側の廊下は、冬の川沿いの堤防のように冷たく、湿気のない乾いた空気が張り詰めていた。

堀田啓介は、警務部人事課の扉の前に立ち、ポケットの中でタバコの箱を探りながらため息をついた。
結局、禁煙が徹底されたこの建物で火を点けることはできない。
代わりに、ポケットの中で指先をこすり合わせる。

隣に立つAI刑事K1は、無表情のまま廊下を見渡していた。

「この空気、相変わらずだな」

堀田の独り言に、K1が淡々と返す。

「沈黙が支配する空間です。外部への情報流出を防ぐため、職員同士の雑談すら制限されています」

「人間、喋れなくなりゃ、余計に考え込むもんだ」

堀田は、重たい扉を押した。

**

人事課の室内は、まるで冷蔵庫のようだった。
整然と並ぶデスク、無駄のないファイル、そして、張りついたような表情の職員たち。
目を合わせても、会話は生まれない。

「例のリスト、誰かが見たって話は?」

堀田の問いかけに、担当の係長・望月浩一が、表情を崩さぬまま答える。

「そんな話は、ありません」

その声には、よく磨かれた金属製の器具のような硬さと冷たさがあった。

堀田は資料をめくりながら、K1と目を合わせる。

「不自然なほど、全員が口を閉ざしてる」

K1が静かに頷く。

「組織内の不祥事を外部に漏らせば、処分対象です。誰も、リスクを冒さないでしょう」

堀田は、心の中で皮肉な笑いを浮かべた。

組織という名の“壁”は、時に堅牢すぎて、中から腐っていくことがある。

**

昼休み、堀田は庁舎裏の非常階段で缶コーヒーを飲んでいた。

遠くに、街の雑踏とクラクションの音が微かに聞こえる。

K1が階段の影に立ち、手のひらサイズの端末を操作している。

「内部ネットワークの監視記録を解析しました。ログの空白部分があります」

「例の、リストが消えた時か」

「正確には、その前後数分間です。誰かが意図的にシステムを遮断し、痕跡を消しています」

堀田は、手すりにもたれたまま空を見上げた。

雲が低く、重たく垂れ込めている。
まるで、この組織の空気をそのまま閉じ込めたような、鈍い灰色だ。

「敵は、壁の内側にいる」

K1が無機質な声で繰り返した。

**

夕方、堀田とK1は再び情報管理課に向かった。

柳瀬智樹が、端末の前で淡々と作業している。

「システム遮断の痕跡は、ごまかせません。だが、内部の誰が操作したのかは断定できない」

柳瀬の声には、まるで防波堤に打ち付ける波のような、一定の冷たさがあった。

堀田は、壁際の掲示板に目をやった。
そこには、来月の人事異動の予告が貼られている。
名前の羅列。だが、その並びには、微かな“意図”が透けて見える気がした。

「これも、誰かが選別してるってわけか」

堀田のつぶやきに、柳瀬はわずかに眉を動かした。

「警察の人事は、組織防衛の最前線です」

「防衛のためなら、記録も消すか」

堀田は、空になった缶コーヒーを軽く握りつぶした。

この組織の“壁”は、表面だけを見ていても、何も見えない。
静かな空気の下で、確実に“何か”が歪んでいる。

**

夜、堀田は庁舎を出た。
ビルの谷間に冷たい風が吹き抜ける。

K1が隣に並び、端末を閉じた。

「これから、どう動きますか」

堀田は、タバコの代わりに深く息を吸い込んだ。

「壁を壊すのは難しい。だが、壁の“影”なら、踏み込めるかもしれねえ」

冷えた空気の中、二人の影が地面に伸びていた。

沈黙の壁。その向こうに、何が潜んでいるのか、まだ誰も知らなかった。

(第2章・了)

第3章 仕掛けられた席順

人事異動の内示が出た日、警視庁本庁舎の廊下は、冬の港町のように乾ききった緊張で満たされていた。

堀田啓介は、掲示板の前に立ち、紙に並んだ名前を目で追った。
整然と、無機質に並ぶ文字の羅列。だが、その配列には、かすかな歪みがあった。

「わざとだな」

堀田の低い独り言に、隣のAI刑事K1が無表情で応じる。

「意図的な操作の可能性が高い。配置順に、偏りがあります」

「配置順か」

堀田はタバコの箱を指で弄りながら、掲示板の端を撫でた。
そこには、目立たぬように追加された小さな紙片が貼られている。
異動対象外のはずの職員の名前が、そこにひっそりと記されていた。

**

午後、情報管理課。

柳瀬智樹が端末を操作しながら、無駄のない声で言った。

「異動リストの操作は、通常は情報管理課の権限外です。だが、何者かが内部システムに干渉し、微細な“席順”の変更を施しています」

「席順ってのは、ただの物理的な並びじゃねえ」

堀田は、机の上に広げた紙を軽く叩く。

「名前の順番は、組織の“力学”そのものだ」

組織という巨大な船の上では、誰がどこに立ち、誰が日陰に追いやられるか、それだけで生き死にが決まることがある。
それは、ただの配置ではなく、静かな宣告だ。

**

その夜、橘沙耶は都内の安い居酒屋で、情報屋のリョウと対面していた。

リョウは、飄々とした笑みを浮かべながら、グラスの氷を転がしている。

「警察の内部異動なんて、外野には関係ない話だろ?」

リョウの言葉に、橘は微かに眉を寄せた。

「“席順”を操作できる奴がいる。なら、その背後には必ず意図がある」

リョウは、氷を口に含みながら、視線を外した。

「意図ってのは、大体がつまらないもんだよ。私怨、嫉妬、出世争い」

「それが、誰かの人生を壊すこともある」

橘の声は、静かだが硬い響きを帯びていた。

リョウは笑みを消し、しばし沈黙した。

**

警視庁、深夜。

堀田とK1は、消灯したオフィスの中で端末を覗き込んでいた。

「異動リストの改ざん部分、特定完了。だが、操作ログは痕跡を消されています」

K1が分析結果を表示する。

「操作できる人物は限られる。だが、誰も表立っては動いていない」

堀田は、遠くを見つめた。

この組織の“水面”は、静かすぎる。
だが、その下では、見えない“手”が確実に水をかき混ぜている。

**

翌朝、庁舎前。

冬の曇天の下、橘が堀田に声をかけた。

「席順が変わったことで、警務部内部で微妙な軋轢が生まれてます」

堀田はコーヒー缶を片手に、ぼんやりと空を見上げた。

「たった一つ、名前の並びが変わるだけで、組織ってのは、簡単に歪む」

K1が静かに補足する。

「不規則な配置は、次第にシステム全体を不安定化させます」

堀田は、コーヒーを飲み干し、缶を握りつぶした。

「まるで、ジグソーパズルの最後のピースが、意図的に削られてるみてぇだな」

誰が、何のために、その“欠け”を作ったのか。

その答えは、まだ霧の中だった。

(第3章・了)

第4章 微細な誤差

警視庁本庁舎の情報管理課。そこは、組織の“心臓”ともいえるデータ中枢だった。

だが、その“心臓”には、わずかな雑音が入り込んでいた。

堀田啓介は、モニターに映る膨大なログデータを前に、コーヒーのカップを握りしめた。

「誤差ってのは、普通なら気づかねえ。でもな、積み重なりゃ、組織の“心拍”だって乱れる」

AI刑事K1が無機質な声で補足する。

「ログの時刻に、ミリ秒単位のズレが検出されています。通常では生じない“微細な誤差”です」

柳瀬智樹が、沈んだ表情で資料を見つめていた。

「誰かが、情報中枢に“指先”を入れてる。だが、証拠としては不十分だ」

堀田は、カップを置き、低くつぶやいた。

「完璧な不正なんて存在しねえ。必ず、何かが“はみ出す”」

**

夜、庁舎の屋上。

冷たい風が、古びたパイプを震わせる音が響いていた。

堀田とK1が、並んで夜景を見下ろす。

「人事リストの改ざん。ログの微細な誤差。全部、同じ“手”の仕業か」

K1が静かに応じる。

「現段階では断定できません。ただ、複数の痕跡が同時期に集中しています」

「なら、組織の中に、誰かが“いる”」

堀田は、曇った夜空を見上げた。

重たく垂れ込めた雲は、まるで警視庁そのものだった。

外からは見えない。だが、中では、確実に何かが蠢いている。

**

翌朝。

橘沙耶は、自宅のノートパソコンで情報を整理していた。

SNS、内部通報、匿名掲示板。あらゆる情報を掘り起こし、微細な共通点を探す。

その中で、ある“ズレ”に気づいた。

「内部文書の日付が、微妙に食い違ってる……」

わずか数秒の誤差。だが、組織のシステムが正確なら、本来、そんな誤差は生まれない。

橘は、震える指先でキーボードを打った。

「誰かが、時刻そのものを操作してる……?」

背筋に冷たいものが走る。

時間を操る。それは、組織の“記憶”をねじ曲げることに等しい。

**

警視庁、情報管理課。

柳瀬が、データをスクリーンに映し出す。

「改ざんは、高度かつ慎重だ。だが、完全ではない。ログに残った“微細な誤差”が、その証拠だ」

K1が解析を続ける。

「誤差の生じた時刻。内部アクセス権を持つ者に限定できます」

堀田は、職員リストに目を走らせた。

「なら、容疑者は絞れるってわけだ」

だが、その中に、これまで顔を合わせたことのある人物たちの名が並んでいる。

望月浩一、人事課長。柳瀬智樹、情報管理課。
そして、意外な名前もそこにあった。

「……リョウ?」

堀田は眉をひそめた。

「情報屋のリョウが、内部アクセスできるわけが……」

K1が淡々と告げる。

「リョウは、過去に警察関連のシステム開発に関与していました。完全に外部とは言い切れません」

堀田は、遠くを見つめた。

“壁”の外にも、手を伸ばせる者がいる。

この組織の“心拍”は、見えない手にかき乱されている。

そして、微細な誤差が積み重なる先に、必ず“破綻”が待っている。

**

夜、堀田は雨に濡れた歩道を歩いた。

頭上の街灯が滲み、舗道の水たまりに歪んだ光が揺れている。

「誤差が広がりゃ、現実そのものが歪む」

堀田はそうつぶやき、足元の影を踏みつけた。

この街の静けさの裏に、確実に何かが潜んでいる。

それを暴くには、まだ時間が必要だった。

(第4章・了)

第5章 耳鳴りのする廊下

警視庁の五階、北側の廊下を歩くと、時折、耳の奥がキンと鳴るような気がした。
音ではない。だが、皮膚の下を細い針が這うような、そんな不快な感覚が確かに残る。

堀田啓介は、その廊下をゆっくりと歩いていた。
壁は清潔で、床は磨かれている。だが、空気は澱んでいる。
まるで、ここだけが時間から切り離された別世界のようだった。

AI刑事K1が、無表情のまま横に立つ。

「気圧、気温、湿度、すべて正常範囲です」

「そういう問題じゃねえ」

堀田は足を止め、耳の奥を軽く指で押さえた。

「この廊下、誰かの“気配”が残ってる」

**

情報管理課の前、柳瀬智樹が端末を操作していた。

「誤差の生じたログ、さらに絞り込みを進めています。ただし、内部からの協力は期待できません」

柳瀬の声は、冷たく、どこか諦めた響きを帯びている。

堀田は、廊下に視線を向けた。

「内部ってのは、いつだって、外よりタチが悪い」

K1が補足する。

「組織内の不信感は、情報隠蔽と沈黙を生みます」

堀田は、天井を見上げた。

白い蛍光灯の光が、微かに揺れている。
誰かが、組織の“骨組み”を密かに揺さぶっているような錯覚。

「耳鳴りは、気のせいじゃねえ。組織そのものが、きしんでる」

**

その夜、橘沙耶は、都内の安いカフェで資料を整理していた。

被害者はいない。事件性も薄い。
だが、警察内部で、何かが静かに狂い始めている。

橘は、ノートパソコンの画面に目を凝らした。

「リストの改ざん、ログの誤差、歪んだ席順」

全てが、偶然では済まされない。

ふと、耳の奥で“キン”という微かな音が響いた。

橘は背筋を伸ばし、周囲を見渡した。

店内は静かだ。だが、その静けさが逆に、不自然なほど耳にまとわりつく。

「組織の“壁”の向こうで、何かが動いてる」

橘の指が震える。

**

翌日、庁舎の廊下。

堀田とK1は、情報管理課前の壁際に立っていた。

「廊下に監視カメラは?」

堀田の問いに、K1が答える。

「設置されています。ただし、過去数日の映像に“隙間”があります」

「またか」

堀田は、壁に手を当てた。

表面は冷たく、滑らかだ。だが、その奥には、確実に“何か”がある。

「この廊下、表と裏の顔がある」

K1の目が、微かに光る。

「裏側を、暴きますか」

堀田は、軽く頷いた。

**

深夜、情報管理課のサーバールーム。

冷気が漂い、静寂が支配する空間。

K1が端末を操作し、隠されたアクセスログを呼び出す。

「内部アクセス、特定の時間帯に集中」

堀田は、画面に映る名前を見た。

望月浩一――人事課長。
だが、その隣には、もう一つ、意外な名前が並んでいる。

「……橘沙耶?」

堀田は、目を細めた。

「内部の記者が、どうして?」

K1が静かに答える。

「取材目的か、あるいは」

堀田は、再び廊下に目を向けた。

耳の奥で、また“キン”という音が微かに響く。

この耳鳴りは、単なる生理現象じゃない。

組織の“壁”が、崩れかけている合図だった。

(第5章・了)

第6章 影の人事

警視庁人事課のフロアには、目に見えない“空気の層”が存在していた。

その層を破らずに歩くには、呼吸すら加減しなければならない。

堀田啓介は、無言でフロアの奥へと進んだ。
書類棚、パーテーション、整然と並ぶ机――すべてが規律正しく、整っている。だが、その“整いすぎた風景”こそが、この組織の歪みの証だった。

人事課長、望月浩一がデスクに座り、淡々と書類をめくっている。

「課長、少し時間を」

堀田の声は低く、だが強い響きを帯びていた。

望月は、わずかに顔を上げる。

その表情は、よく磨かれた金属のように無表情で、反射すらしない。

**

面談室。

堀田と望月、AI刑事K1が向き合う。

「影の人事リスト、見たことがあるか?」

堀田の問いに、望月はわずかに眉を動かした。

「噂なら、聞いたことがある」

「噂じゃねえ、実際に存在する。名前の順番を変えるだけで、人間の人生は簡単に転がる」

望月は静かに椅子にもたれた。

「人事は、組織を守るための“配置”だ。そこに感情は介在しない」

堀田は、ポケットから紙片を取り出した。

そこには、極秘扱いの内部資料。
異動リストの“裏版”とも言える、選別された名前の並び。

「この順番、意図的に仕組まれてる。お前が関与してないなら、誰がやった?」

望月は答えない。ただ、冷たい視線を返すだけだ。

**

庁舎の非常階段。

堀田とK1が並び、外の曇天を見上げていた。

「影の人事、誰かが裏で糸を引いてる」

K1が、端末を操作しながら言う。

「操作ログの“誤差”を辿れば、関与者を特定できる可能性があります。ただし、内部の協力が必要」

「だが、内部は信用できねえ」

堀田は、灰色の雲を見つめながらつぶやいた。

「この組織は、表と裏、二重に出来てる。誰がどこに立ってるのか、見た目じゃわかんねえ」

**

夜、橘沙耶は再びリョウと接触していた。

居酒屋の奥、誰もいない半個室。

リョウは、グラスを転がしながら笑った。

「影の人事?そんなの、どこにでもある」

「警察内部で、そんなことが許される?」

橘の声は低いが、鋭さを含んでいる。

リョウは目を細めた。

「正義だとか公平だとか、そんなもんは表向きの飾りだ。組織の裏には、必ず“影”がいる」

橘は、拳を握りしめた。

「でも、私は暴きたい。その“影”を」

リョウは、氷を口に含んだまま微笑んだ。

「暴けるものなら、な」

**

深夜、堀田は庁舎の資料室にいた。

手元には、古い異動リスト。そこには微細な“ズレ”が積み重なっている。

K1が静かに言う。

「人為的な操作、確実です。だが、痕跡は消されつつある」

堀田は資料を閉じ、ため息をついた。

「影は、光の中には現れねえ」

だが、影があるということは、どこかに“光源”がある。

その光を見つけなければ、組織の“裏側”は暴けない。

静かな警視庁の廊下に、堀田の足音だけが、乾いたリズムを刻んでいった。

(第6章・了)

第7章 曖昧な記憶

警視庁の地下階、サーバールームは、外の世界と切り離された無音の空間だった。
人工的な冷気が漂い、電子機器のわずかな駆動音だけが響いている。

堀田啓介は、薄暗い室内に立ち尽くしていた。
目の前の端末には、異動リスト、ログデータ、アクセス履歴――膨大な情報が映し出されている。

だが、そのどれもが、どこか“歪んで”いた。

「曖昧だな」

堀田のつぶやきに、隣のAI刑事K1が応じた。

「記録の整合性に、微細な矛盾があります。通常のデータ改ざんとは異なる」

堀田は、モニター越しに虚空を見つめた。

「まるで、人間の“記憶”みてぇだ」

人の記憶は、正確なようでいて、案外あやふやだ。
都合の悪い部分は曖昧にし、見たいものだけを鮮明に残す。

この組織のデータも、誰かの“都合”で、意図的に曖昧にされている。

**

その夜、橘沙耶は、自宅の部屋でノートパソコンを開いていた。

異動リスト、関係者の証言、内部文書。

だが、どれを重ねても、確信に至らない。
まるで、霧の中を手探りで進んでいるようだった。

ふと、幼い頃の記憶がよみがえる。

小学校の頃、教室で聞いた“人事異動”の噂話。
当時は意味も分からず、大人たちが名前の順番で右往左往する様子を不思議に眺めていた。

「結局、大人になっても変わらない」

橘はつぶやき、ノートに手書きで情報を整理する。

曖昧な記憶、歪んだ情報、その隙間に、真実は潜んでいる。

**

翌朝、庁舎の廊下。

堀田とK1が、情報管理課前に立っていた。

柳瀬智樹が資料を手に、やや疲れた様子で近づいてくる。

「内部の職員の証言、バラバラだ」

柳瀬の声は乾いている。

「同じ時間、同じ場所のはずが、記憶にズレがある。まるで、誰かが“記憶”ごといじってるみてぇだ」

K1が淡々と補足する。

「情報干渉の可能性は否定できません。ただし、物理的証拠は不十分」

堀田は、ポケットに手を突っ込み、視線を落とした。

「人間の記憶なんて、最初から曖昧なもんだ」

だが、その曖昧さを逆手に取る者がいる。

誰かが、意図的に記憶を歪め、事実を曖昧にし、組織の“真実”を見えなくしている。

**

夜、リョウと再び接触した橘。

リョウは、カフェの隅でコーヒーをすすりながら、意味ありげな笑みを浮かべた。

「人間なんて、記憶を改ざんしながら生きてる」

「自分に都合よく、過去を書き換える」

橘は、リョウの目をじっと見据えた。

「その裏で、誰かが意図的に事実を消せば、全部ごまかせる」

リョウは、目を細める。

「そういう“歪み”が、この街の空気を作ってる」

**

警視庁の屋上。

堀田とK1が、ビル群の夜景を見下ろしていた。

「記憶が曖昧なら、現実だって曖昧になる」

堀田の声は低く、かすかに苦味を含んでいる。

K1が静かに言った。

「曖昧な現実は、不安定です。だが、人間はその“不安定さ”に慣れています」

堀田は夜空を見上げた。

鈍く重たい雲が、街を覆っている。
その向こうには、まだ見えない“真実”が潜んでいるはずだった。

(第7章・了)

第8章 疑念と確信の狭間

冬の東京は、曇天が張り付いたまま動かず、街全体が一枚の薄いガラス越しに見えているようだった。

警視庁本庁舎、そのガラスの内側では、見えない“亀裂”が静かに広がっていた。

堀田啓介は、情報管理課のモニターを見つめながら、深く息を吐いた。

異動リストの改ざん、ログの誤差、曖昧な記憶――
事実は、点でしか存在せず、その点と点をどう結ぶかは、結局のところ人間の“思い込み”に委ねられる。

「疑念と確信の境目ってのは、紙一重だな」

隣でAI刑事K1が、冷静に答える。

「判断の基準は、証拠の有無。だが、証拠自体が操作された場合、確信は成立しません」

堀田は、資料を手に廊下へ出た。

その足元で、床がわずかにきしんだ気がした。

**

庁舎の面談室。

柳瀬智樹が、机に書類を並べ、堀田と向き合う。

「望月人事課長、内部アクセスの痕跡は確かにある。ただし、直接的な証拠はない」

柳瀬の声は乾いている。
まるで、濡れていない冬のアスファルトのように、硬く、滑らかで、だが冷たい。

堀田は目を細めた。

「内部の誰かが操作したのは間違いねえ。だが、誰かを決めつけりゃ、そこに“確信”が生まれる。下手すりゃ、それが誤解の温床になる」

柳瀬は、静かに言った。

「私は組織の中で生きてる。その“温床”に、何度も足を取られた」

堀田は、その言葉を反芻しながら、ゆっくり席を立った。

**

その夜、橘沙耶は都内のビルの一室で、リョウと再び対峙していた。

「疑念と確信の狭間に、人は揺れる」

リョウの言葉は、まるで湿った冬の風のように、じわじわと橘の皮膚にまとわりつく。

「真実なんて、簡単に信じたほうが楽だ。でも、それは危うい橋を渡るのと同じ」

橘は、手元のノートを閉じた。

「でも、私は確かめたい。誰が、どこで、何を操作してるのか」

リョウは、薄く笑った。

「知るほどに、余計にわからなくなるのが“真実”さ」

**

翌朝、堀田とK1は、情報管理課のサーバールームで再分析を続けていた。

「操作ログ、さらに絞り込みました。望月課長以外に、微弱なアクセス記録」

K1がスクリーンに映す。

そこに浮かぶのは、橘沙耶の名前。

「またか」

堀田は、苦い表情でつぶやく。

「橘が、内部の操作に関与してる?」

「確証はありません。ただし、疑念は濃厚」

堀田は、静かに廊下へ出た。

曇った窓の外、鈍い光が差し込んでいる。

人は、確信にすがりたがる生き物だ。

だが、今、この組織で確かなものは、一つもない。

疑念と確信の狭間を、誰もがふらつきながら歩いている。

(第8章・了)

第9章 輪郭なき犯人

曇天の東京は、まるで厚手のベールを被せられたように、街の輪郭をぼやけさせていた。

そのベールは、警視庁の内側にも広がっている。

堀田啓介は、情報管理課の廊下をゆっくりと歩いていた。
誰の顔も見えず、気配だけが鈍く漂っている。

輪郭が曖昧なまま、犯人の影だけが、この組織の“内側”を這い回っている。

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庁舎の会議室。

堀田、AI刑事K1、柳瀬智樹、橘沙耶がテーブルを囲む。

K1が端末を操作し、分析結果を映し出す。

「ログ改ざん、席順操作、内部情報の歪曲。複数の関与者の可能性があります」

「誰が黒か、まだ断定できねえってことか」

堀田の声は低く、かすかに苦味を含んでいる。

柳瀬が表情を曇らせたまま言った。

「輪郭が見えない。だが、組織の内部に、確実に“手”が伸びてる」

橘が、資料を手にしながら言葉を続ける。

「記憶は曖昧、証言は食い違い、データは歪められたまま」

堀田は、天井を見上げた。

この建物そのものが、巨大な“迷路”に思えてくる。

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その夜、堀田はK1と非常階段に立ち、ビル街の霞んだ夜景を眺めていた。

「犯人の輪郭が見えねえ」

堀田はつぶやいた。

K1が静かに応じる。

「輪郭を見せないことが、犯人の“術”です」

堀田は、曇った夜空を見つめた。

「人間ってのは、見えないもんに一番惑わされる」

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深夜、橘は単独で資料室に入り、内部文書を確認していた。

その最中、背後から微かな気配を感じる。

振り返るが、誰もいない。

だが、確かにそこに“誰か”が立っていたような気配が残っている。

輪郭のない犯人が、すぐ傍にいる――
そう思わせる、粘つくような空気だけが残っていた。

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翌朝。

庁舎の中庭、堀田と柳瀬が言葉を交わす。

「お前、まだ自分の“内側”疑ってんのか?」

柳瀬は目を伏せた。

「私は、この組織の一部だ。その一部が腐っているなら、自分も例外じゃない」

堀田は、冷えた缶コーヒーを飲み干した。

「お前だけじゃねえよ。ここにいる誰もが、何かしら“腐敗”を抱えてる」

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情報管理課のモニターに、わずかな異常が映る。

K1が解析する。

「不正アクセス、再確認。だが、発信源の特定は困難」

堀田は、画面を見つめた。

「犯人の輪郭が見えない。でも、確実に“ここ”にいる」

静かな庁舎の空気の中、目に見えない“影”だけが、組織の奥底でうごめき続けていた。

(第9章・了)

第10章 沈黙の代償

警視庁の廊下は、夜になると、まるで病室のように静まり返る。
誰もが必要以上に声を潜め、足音だけが乾いた音を刻む。

堀田啓介は、情報管理課の端末前に立ち尽くしていた。
操作ログ、異動リスト、歪められたデータ――
その全てが、今、一つの“線”で繋がり始めていた。

AI刑事K1が無表情で告げる。

「操作履歴、最終アクセス者、特定完了」

堀田は、画面に映る名前を見た。

「……柳瀬、か」

静かに、だが確実に、その名が浮かび上がった。

**

面談室。

柳瀬智樹が、端正なスーツ姿のまま椅子に座り、薄い笑みを浮かべている。

「全部、君の仕込みだったわけだ」

堀田の声は低いが、荒れてはいない。

柳瀬は、少しだけ肩をすくめた。

「正確には、“全てではない”」

「言い逃れか?」

「違う。君も気づいていただろう」

柳瀬は、机に手を置き、視線を合わせた。

「この組織の中で、完全な善も、完全な悪も存在しない」

堀田は静かに頷いた。

「お前も、腐敗の一部を知ってた。でも、全部を暴けば、自分の立場も揺らぐ」

柳瀬の口元がわずかに緩む。

「だから、選んだ。必要な部分だけを“改ざん”し、必要な者だけを“消す”」

「それが、お前の“沈黙の代償”か」

柳瀬は、深く息を吸い込んだ。

「組織は、完全じゃない。その不完全さを補うために、時に“影”が必要なんだ」

堀田は、ポケットの中で指を組んだ。

「だが、その影に踏み込みすぎりゃ、誰かが消える」

柳瀬は静かに立ち上がった。

「私は、自分の“影”を消したつもりはない。ただ、歪んだ組織の“形”を整えただけだ」

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夜、庁舎の屋上。

堀田とK1が並び、冷たい夜風を浴びている。

「柳瀬が犯人だった」

堀田は、乾いた口でつぶやいた。

K1が補足する。

「正確には、“完全な犯人”とは断定できません」

堀田は、夜空を見上げた。

「そうだな。お前の言う通りだ」

この組織には、まだ“影”がいる。

柳瀬だけではない。望月も、リョウも、橘すら、完全な白ではない。

人間は誰しも、不完全な“影”を抱えて生きている。

**

翌朝、庁舎の前。

曇り空の隙間から、微かな光が射し込んでいる。

堀田は、ポケットからタバコを取り出しかけ、思いとどまる。

「不条理な現実でも、今日を歩くしかねえ」

K1が隣で静かに頷く。

「沈黙の代償は、続く。ですが、人間は、その中でも生きていく」

堀田は、コートのポケットに手を入れたまま、歩き出した。

この街の輪郭は、曖昧なまま。
だが、その曖昧さの中で、人は今日も生きていく。

(完)

あとがき

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

本作『沈黙の代償』は、AI刑事シリーズとしては異色の作品かもしれません。
銃も、死体も、暴力もほとんど登場しない。
けれど、確実に「何か」が壊れていく感覚が、この物語にはあります。

人は、誰しも“影”を抱えています。
それを直視せずに生きることもできる。
でも、いつか、その“影”の代償を払わされる瞬間が訪れるかもしれません。

私自身、日々の仕事や社会の中で、「組織の壁」「不条理」「曖昧な現実」を痛感します。
だからこそ、この物語を通じて、「曖昧な現実の中でも生きていくしかない」そんな人間の強さと弱さを描きたかったのです。

また次の作品でお会いできることを、楽しみにしています。

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