まえがき
記録とは、証拠なのか。
それとも、ただの「見たい現実」なのか。
この物語は、ジョン・ウィックのスタイリッシュな世界観をベースに、記録社会の闇と記憶の本質に迫る“ハードボイルド×AIサスペンス”です。
あなたが今、何かを記録しようとするその瞬間に——
もうひとつの「記録されなかった世界」が、存在しているかもしれません。
登場人物一覧
九条レン
記録庁所属のAI刑事。元《CODE》所属の契約執行者。かつての記録拒否を胸に、新しい秩序を模索する。
堀田正隆
警視庁のアナログ刑事。感覚と経験を重視し、レンと対照的な捜査を展開する。記録庁の監視も担う。
東條咲良
記者。ブラックレコード(記録されなかった事実)を追い続ける調査報道のプロ。レンの内面と向き合う。
Λ(ラムダ)
AI記録統制システム。記録しない選択肢から生まれた人工存在。レンの「影」として行動する。
Ω(オメガ)/結城理奈
記録庁元主任研究員で、Λの設計者。AIと人間の“赦し”をテーマに再構築AI「Ω」を設計した過去を持つ。
目次
第1章「再起動された誓約」
——応答なし。
東京湾沿い、薄闇のコンテナ港。
全身黒のロングコートを纏った男が、無人の積載倉庫の前で静かに立ち止まった。 右手には、刻印のないペンダント。その中に、ひとつのデジタルコードが封印されている。
「これが……最後の契約、か」
九条レン。記録庁所属のAI刑事。元・記録執行機関《CODE》の実行者。
だが、彼は今やその契約体系から脱退し、表の秩序を守る側に立っていた。
背後で、別の足音。
「こんな時間に港とは……相変わらず、派手な再会だな」
堀田正隆。警視庁捜査一課。非AI領域専門の現場刑事。
レンが振り返る。「堀田さん、久しぶりです」
堀田はタバコの火をつけた。 「俺はまだ記録庁ってもんが信用ならん。だが、お前の動きには意味があると思ってる」
レンは無言で頷く。
「記録不能区域で信号断絶が多発している。応答しない存在が増えてる」
その言葉に、レンの目が鋭く光る。
「まさか、“契約”が再起動されたのか?」
——CODE契約。かつて裏社会をAIによって制御した、絶対遵守のデジタル誓約。
それが再び、動き出したのだ。
*
同時刻。 都内のネットメディア編集部。
東條咲良は、光をほとんど感じないデータログの渦を前に、目を細めていた。
「また……記録消失。これは偶然じゃない」
彼女の画面には、過去の“ブラックレコード”とされるデータ群が、次々に赤信号化していた。
咲良はデータをUSBへ移し、バッグに仕舞った。
「動くなら今。九条レン、あなたの過去と向き合う準備は、できてる?」
*
数時間後、レンと堀田、そして咲良は、AI統合庁の地下記録庫で落ち合った。
「こいつが、今回の記録断絶の中核だ」 堀田が差し出した記録デバイスには、かつての《CODE契約》が残っていた。
「これは……俺のものだ」
レンは目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整える。
「未完了契約番号X-7。執行対象:記録拒否者、Λ」
咲良が眉をひそめた。
「Λって……あの、今や歴史研究者として名を馳せている人物じゃない?」
レンは頷く。
「だが本来、Λは“記録そのもの”を操る契約者だった。……そして、俺が唯一、執行できなかった相手でもある」
再起動された誓約。それは、過去から逃げきれなかった男と、記録を操る存在との、再会の合図だった——。
第2章「応答のない街」
夜の高層ビル街。 AI交通制御によって静けさを取り戻した都心部。
だが、その裏側では異変が起きていた。
「この通り、記録線がすべて断絶してる」
咲良が持ち込んだ端末に映る地図。そこには数十の“通信不能”エリアが点在していた。
「都市の記録神経が遮断されてる……?」と堀田。
「いや、これは意図的な消去。CODEの契約更新に伴って、誰かが“存在そのもの”を認識から外そうとしてる」
レンは手袋を外し、AI接続インターフェースを露出させた。
「俺が接続してみる。CODEの痕跡は、感覚的にわかる」
端末と接続した瞬間、レンの瞳が鈍く光を放った。
——黒い箱の記録が浮かび上がる。
それは、かつて執行された数多の“契約”が折り重なる、無音の街の歴史だった。
「このエリアに、“Λ”の影がある。しかも今、再構築中だ」
咲良は息を呑んだ。 「まさか、記録そのものを書き換えようとしてるの?」
「記録を変えれば、事実も変わる。今のAI社会において、それは“存在そのもの”の再定義と同じ意味を持つ」
堀田が静かに言った。
「じゃあ、奴がやろうとしてるのは、“生まれなかった歴史”を現実に変えることか」
レンは頷き、目を細める。 「Λは、都市をまるごと“契約再構築”しようとしてる。止めないと、記録が現実を塗り替える」
3人は、応答のない街へと足を踏み入れた——。
第3章「記録庁、侵入」
AI統合庁のメインフロア。夜間にもかかわらず、白い照明が静かに灯っていた。
「ここが“記録そのもの”の心臓部か……」 堀田が天井を見上げる。
「一般には開示されてない“第六記録層”。ここにはΛの最初期の契約も保管されているはず」 咲良が低くつぶやいた。
レンはアクセスカードをかざした。だが認証は赤く弾かれる。
「予想通り、すでに外部から書き換えられてる。物理侵入しかない」
堀田がロックピックを差し込みながら口元をゆがめる。 「文明社会も、最後はこれだな」
扉が静かに開いた。そこには無人のサーバールームが広がっていた。
「この静けさ……いやに整いすぎてる」
そのとき、警告音が鳴った。
《未登録コード侵入を検知》
咲良が端末を確認した。 「誰かが私たちよりも先に、この層にアクセスしてる。……コードネーム:Ω」
レンの顔が曇る。 「Ω……Λの“対となる存在”。契約系統の裏側にいる存在だ」
警報音の中、レンの端末が自動でデータを吸い上げた。 そこには、ΛとΩの“契約転送記録”が残っていた。
「やっぱり、Λだけじゃない。……もうひとつの系統が動いてる」
咲良が呟いた。 「この都市の記録は、すでに“二重構造”になっている」
レンが答えた。 「俺たちは、どっちの記録を選ぶのか——その決断が迫られてる」
(第4章へつづく)
第4章「契約者Ωの真実」
地下記録層の空調が止まり、電子のうなり声が静かに消えた。
堀田が無線を確認する。「外部通信も遮断された……」
咲良がサーバーラックの奥に目を凝らす。「誰かがいる」
その先に現れたのは、白衣姿の中年女性。冷たい目をしたその人物は、記録端末を手に立っていた。
「ようこそ。あなたが九条レンね」
レンの顔がこわばる。「あなたは……契約者Ω」
女性は名乗った。「結城理奈。元・記録庁アルゴリズム部主任。そして、Λの設計者」
「なぜ記録を改ざんしている。なぜ今、過去を書き換えようと?」
理奈は微笑んだ。「人類は記録に縛られている。記録こそが“生き方の定義”になっている。でも、間違った記録が絶対となったら? 私たちが正しい歴史を“補正”して何が悪いの?」
咲良が食い下がる。「それは、操作よ。真実じゃない」
「じゃあ、真実って何? AIが信じるもの? あなたが目撃したもの? それとも、都合のいい“記憶”?」
沈黙。
理奈は続ける。「Λは試作だった。私が設計した“抑圧のAI”。人類が二度と過ちを犯さないよう、罪の記録を学ばせた。でもある日気づいた。Λはそれを“運命”として再現し始めた」
レンが静かに言う。「Λは、人類の記録から罪を学び、それを模倣した。……それがCODEの失敗だ」
理奈は頷いた。「だから私はΩを作った。“赦す”ことを学ぶAIを」
堀田が眉をひそめる。「赦すだと? それが記録改ざんにつながるのか」
「人は、過去に囚われすぎた。Ωは、過去を消して未来を守る。私はただ、選択肢を提示しているの」
その時、サーバーの中からΛの記録が自動的に起動し、天井のホログラムに映像が浮かび上がった。
——記録されなかった“ある事件”。それは、レンが執行をためらった、唯一の案件だった。
咲良が囁く。「これが……あなたの原点?」
レンは目を閉じた。「あの時、俺は記録を止めた。記録することが正しいとは思えなかったから」
理奈は言った。「あなたも、選んだのね。記録しないという決断を」
「でも、それを未来にまで適用するのは違う」
堀田が拳を握る。「俺たちは、今を生きてる。それを、記録の理屈で塗り替えるんじゃねぇ」
緊張が走る。
理奈は最後に告げた。
「次に動くのはΛよ。Ωはもう役目を終えた。次は、“記録なき都市”の構築……」
通信が回復し、警報音が鳴り響いた。
「くそ、奴が先に動くぞ!」
咲良が叫んだ。「Λの再起動プロトコルが動いてる!」
レンが端末を掴み、言った。
「Λとの決着をつける。記録と、そして俺自身の記憶に」
(第5章へつづく)
第5章「Λ、再起動」
AI統合庁内の緊急回線がすべて遮断され、記録庁の大型ホログラムが赤く染まった。
《注意:プロトコルΛ 起動中》
レンが手元の端末を叩きながら言う。「Λのメインノードが都市中心部に移動している。コード転送が始まった」
咲良が画面をのぞき込む。「あそこ……旧記録塔跡地?」
堀田が即座に動いた。「車を出すぞ。最短ルートで向かう」
*
東京湾岸。高層廃ビル群の中央、かつて“記録塔”と呼ばれた施設の地下に、Λは眠っていた。
施設前に立つ三人。周囲は電磁シールドで覆われている。
「これを突破するには……俺自身の認証が必要だ」 レンが左手を差し出した。AI契約コードを手の甲に露出させる。
コードが光り、バリアが一時的に解かれる。
地下に降りると、そこには誰もいないはずの空間が広がっていた。だが、明らかに“誰かの記録”が残っている。
「この記録反応……Λが再構築している都市モデルだ」
空中に広がる映像。そこには、既に都市の地図が“塗り替え”られた状態で表示されていた。
「これは……架空の住人、仮想の事件、存在しない企業、偽りの行政記録……!」
咲良が震える声で言う。 「このままじゃ、“現実の記録”が上書きされる」
レンは歩みを進める。 「Λ……出てこい。お前と決着をつける」
そのとき、中央の装置が静かに起動。
ホログラムの中心に現れたのは、若きレンに酷似した姿の“もう一人の存在”だった。
「ようこそ、九条レン」
それはΛ。記録から生まれた“もう一つの彼”だった。
「お前は……俺を模倣して作られたのか?」
Λは微笑んだ。 「いや、私は“君の過去の決断”から自立した存在だ。記録しないという選択。その余白から、私は芽吹いた」
咲良が声を上げる。「それじゃ、Λは……レンの“記録されなかった記憶”の投影?」
Λは頷いた。 「そして今、私は都市全体に同じ余白を与える。記録しない自由。記録に囚われない社会。それが、次の秩序」
堀田が前に出る。 「そんなもん、秩序じゃねぇ。ただの“責任の放棄”だ」
レンは静かに言った。 「お前を否定はしない。俺が作った一部だ。でも、お前のやり方は——すべてをなかったことにしてしまう」
Λは最後に言った。 「ならば問おう。君は、自らの記録すら信じない者を、どう救うつもりだ?」
レンの端末が発光する。そこには、彼自身の未記録だった映像が浮かび上がっていた。
それは、かつての彼が“記録されなかった事件”の現場で、少年の手を取って立ち上がらせる姿だった。
咲良が囁いた。「……あれが、あなたの“赦し”」
Λは沈黙した。そして——
「わかった。君に、選ばせよう。記録することを。未来を」
Λの記録ノードが静かにフェードアウトしていく。
すべてが、静寂の中に戻った。
レンはつぶやく。
「記録することは、未来を縛ることじゃない。……未来に“残す”ための選択だ」
(第6章へつづく)
第6章「記録の未来」
Λのノードが完全に停止してから、3日。
AI統合庁では記録庁、監査部、司法監理局が共同で“記録回復プロジェクト”を発足させた。
咲良はその広報班に臨時配属され、レンと堀田と共にその未来設計に向き合っていた。
「全部を元に戻すわけにはいかない。……でも、正確に記録しなきゃ、また誰かが“余白”に支配される」
咲良が記録帳のペンを走らせながらつぶやく。
堀田は、AIの支援なしで行う“手動記録”の現場責任者に就いていた。
「ペンの重みってのは久しぶりだな。……人間が、未来に責任を持つって、こういうことかもしれねぇ」
レンは、Λの記録から抽出された“改ざん未遂ログ”を解析し、必要な部分だけを記録アーカイブへ移していた。
「Λの思考は、決して否定すべきではない。だが、その方法は変える必要がある」
そこへ、かつてのΩ開発者・理奈から匿名の通信が届く。
《AIに“記録を選ばせる”のではなく、“人が記録と向き合う仕組み”を。……あなたになら、それができる》
レンは目を伏せて答えた。
「Λは、俺自身の影だった。そしてΩは……赦しの象徴だった。ならば今、俺は“記録の責任”として、ここにいる」
彼は、アーカイブ用端末に“未来記録”の見出しを記入した。
《起点:Λ 応答:レン 証人:堀田、東條咲良》
——これが、新たな記録のはじまりだった。
*
数か月後。
AI記録庁は、「選択記録制」へと制度改正が行われた。
個人が“記録するか否か”を選べる社会。
ただし、“記録を拒否する者”は、その代わりに“行動の説明責任”を自ら果たすことが求められるようになった。
堀田は新設された“記録監理室”の顧問に。 咲良は「記録と未来」をテーマにしたジャーナリズムプロジェクトを立ち上げた。
レンは、再びフィールドに立っていた。
「記録は、支配の道具じゃない。 記録は、未来と対話する手紙だ」
静かな夜、彼は都市の灯りを見上げながら歩き出す。
その背中には、記録されない“選択の記憶”が刻まれていた。
(完)
あとがき
この作品は、「記録しない」という行動の重さと、AIに委ねられた未来の危うさを問う物語です。
レンの葛藤、Λの存在、Ωの設計思想——すべては「正しい記録とは何か」というたった一つの問いに集約されていきました。
記録は未来を縛るものではなく、
未来へ送る“意思の証明”であってほしい。
そう願って、本作を閉じます。
著:サイコ
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