AI刑事 器の記憶 | 40代社畜のマネタイズ戦略

AI刑事 器の記憶

警察小説
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まえがき

この物語は、記録と記憶の狭間に生きた“誰か”のために書かれた。

戸籍にも行政にも、存在を証明する術がなかった者たち。 AIがすべてを記録し、制度が合理で運営される現代において、 逆説的に「記録されなかったこと」が、最も深い“人間の証明”になる。

私は、この物語を通じて問いたい。 “見るべきもの”とは何か。 “語らないこと”は逃避なのか、それとも赦しなのか。

読者の中に、小さく灯る何かがあれば、それがこの記録の“存在証明”です。

サイコ

登場人物一覧

神谷ひとみ(かみや・ひとみ)
フリーの記者。福祉・行政・AI社会問題を専門に追いかける。かつて兄を失った経験があり、“名前のない存在”に異常なほど敏感。

宇津木明(うつぎ・あきら)
警視庁の刑事。AIとの連携捜査に限界を感じながらも、現場に残る。泥臭さと直感で“記録されない犯罪”を追う。

K1(ケイワン)
国家認定AIシステム。行政・捜査補助に用いられるが、自己判断機能を制限されている。だが、人間の“記憶”への共感に揺れる。

ミズシマ
本作の“記録されなかった人物”。戸籍が存在せず、福祉制度からも排除されて育ったが、手書きのノートにすべてを残していた。

三田村雅彦(みたむら・まさひこ)
元厚労省高官。現在は大学教授。制度内で“消された存在”について、複雑な立場をとる人物。

ノートを持つ若者
展示最終日に現れる謎の来訪者。かつてミズシマと同じ施設にいた記憶を語る。

中年女性の来訪者
記録と記憶のあわいに佇む市民の象徴。彼女の言葉が、物語の結論に静かな重みを与える。

目次

まえがき

登場人物一覧

第1章「欠けた出生記録」

第2章「地図にない町」

第3章「声なき報告書」

第4章「赦しの座標」

第5章「見ないという判断」

第6章「組織の記憶」

第7章「群衆の空気」

第8章「交差する沈黙」

第9章「真実の重み」

第10章「器の記憶」

あとがき

第1章「欠けた出生記録」

東京都・練馬区。雨上がりの早朝、区役所の一角で一人の職員が硬直していた。住民票の照会システムに表示された名前と番号が、どのデータベースにも一致しなかったのだ。

「この人、登録されてません」

確認のため参照された国民健康保険、年金、マイナンバー、戸籍――いずれにも該当なし。だがその人物は、確かに“そこにいた”と目撃され、写真にも映っていた。

K1、正式名称《刑事補助AIユニット型記録群体-K》に照会が回された。

K1「対象個体は、行政的には“存在しない人物”である可能性が高い」

人工知能は、沈黙の記録を掘り起こす旅へ出ることになる。

警視庁・情報解析室。 AI刑事K1は、練馬区役所からの照会に対応していた。問題の人物は、防犯カメラの映像に複数回登場しており、施設利用やコンビニでの購入履歴も“実在”を裏付けていた。

しかし――

K1「出生記録、学籍、住基ネット、いずれの国家系統記録にも一致なし」

内部ログに異常検知。 かつて照合されたことがあるID情報が、現在のログ上から“欠落”している。

K1「削除ではない。初期化でもない。ログ構造に空白が存在している」

K1は、欠落した記録の周囲に残されたメタデータから、“意図的に忘れられた記録”である可能性を推測する。

刑事・宇津木誠一(50)は、かつて児童福祉案件を多く扱っていた。 AIの提示した“照合不能人物”に見覚えがあった。

宇津木「これは…昔、保護対象だった子じゃないか。だが、記録がない?」

過去、里親制度下にいた子ども。だが正式な戸籍登録は曖昧なままだった。宇津木は、当時の児相職員や福祉関係者に非公式に連絡をとり始める。

一人、また一人と「知らない」「記録はない」と答えた。

宇津木「これは“誰か”が消したんじゃない。“皆で”見なかったことにしたんだ」

神谷ひとみ。元大手紙の記者で、現在はフリー。 彼女は“データに残らない人物”に強い興味を持っていた。

過去の行政文書閲覧請求を通じ、練馬区と厚労省の間で交わされた「非公開福祉対象」の存在を知る。匿名化された事例の中に、“町名ごと記録が消された案件”があった。

神谷「この人物、生まれた時から“記録されないこと”を背負ってたんじゃないか」

K1と宇津木の追跡によって、人物の居場所は特定された。 都内某所、福祉作業所で“ミズシマ”と呼ばれる男が、日々黙々と清掃を続けていた。

作業所職員「彼ね、まじめで寡黙。でも住民票も保険証もなし。誰かの扶養にも入ってないんですよ」

男は声を発することも少なく、会話は成り立たない。だが、ある日唐突にこう言った。

ミズシマ「俺が、いるのは……間違いだったんだ」

K1のログはこう締めくくられていた。

「記録の欠落は、単なるデータ不備ではない。人が“記録しないこと”を選んだ結果である」

物語は、行政と社会が“ある命”を記録しなかった理由へと、静かに踏み込んでいく。

第2章「地図にない町」

東京都内。都庁の一室で、K1は“行政処理済み”とされる旧地名リストにアクセスしていた。

K1「対象人物に関連する可能性のある住所が、存在した形跡はあるが……現在の地図には記載されていない」

対象となるのは、かつて存在した東北地方の小さな集落。 平成期の町村合併に伴い、記録上も消滅した“行政上の空白地帯”だった。

刑事・宇津木と記者・神谷は、K1の指示する地図を片手に、かつて存在した町を訪れる。

旧町役場の跡地は、雑草に覆われた駐車場と化していた。郵便局も閉鎖。学校は解体済み。

神谷「町って、こんなに簡単に“なかったこと”になるんですね……」

聞き込みも難航。地元の高齢者たちも「そんな子はいなかった」「記録なんて見たことない」と口を閉ざす。

K1が照会した旧町役場のデータベースには、住民記録と福祉処理履歴が部分的に存在していた。 だがファイル名には「統廃合対象・削除予定」「一時的保管」など不審な記録が並ぶ。

K1「この記録群は、過去に“処理済み”として行政AIによって分類された可能性があります」

それは“抹消”ではなく、“記録されない処理”という日本的行政のグレーゾーンだった。

一軒の古い商店を営む老婆が、ぽつりと語った。

老婆「あの子かい? 目が見えなくて、いつも川の音を頼りに歩いてて……。でも、引き取った家も、みんな出ていったよ」

宇津木「名前、覚えてますか?」

老婆「……名前なんて、最初からなかったんじゃないの」

その言葉が、宇津木と神谷の心に刺さった。

神谷は旧町の歴史資料館で、かつての養護施設の写真を見つける。

そこにいた少年の写真の裏に、鉛筆で薄く「水嶋」と書かれていた。

神谷「ミズシマ……。あの男の名と、重なる」

宇津木「だが戸籍はない。名乗っただけだ。存在は“記録されていない”」

行政の記録に現れない“記憶”が、ゆっくりと姿を現し始めていた。

K1の分析ログはこう締められる。

「人間社会において、“地図にない”とは、存在を否定する最大の手段である。対象個体の過去は、制度により“不可視化”されている」

次なる焦点は、“誰が何のために記録を外したのか”。 物語は、“見えない座標”を辿り始める。

第3章「声なき報告書」

K1が解析した内部ログに、不自然な断絶が複数検出された。行政文書における定型的な連番が、数件分ごそっと抜けていた。

K1「対象事案に関わる文書の消失が確認されました。理由は記録されていません」

一方、宇津木は過去の児童相談所関係者を探していた。かつて存在した“緊急対応型保護ケース”のファイルは、ほぼ全件が非公開となっており、閲覧には大臣決裁レベルの承認が必要だった。

「もう20年以上も前のことだよ。そんなもの、残ってたところで誰が読める?」

神谷は情報公開請求で、かろうじて厚労省の文書管理リストにたどり着いた。

そこには『保護対象・識別困難児童:東北地方某県』『関係者ヒアリング記録:整理中』『記録媒体:欠番』とある。

まるで最初から“存在してはいけなかった”かのように、ミズシマという人物の根拠は削ぎ落とされていた。

ある旧厚労省職員が、オフレコでこう語った。

「ああいう案件は、記録しないってことが、当時の“現場の最善”だったんだよ。行政的には“存在を確認していない”ってことで、責任が回避できる」

K1は、過去の文書保存ルールの変遷を遡って照合した。

1999年の児童福祉法改正、2005年の電子行政移行、そして2011年の震災後の記録簡素化。 いずれも、“空白”が発生するタイミングと一致していた。

K1「この人物の記録空白は、複数の制度的改変と一致。行政的には正当と処理される余地があります」

宇津木は声を荒げた。

「正当!? 人の存在が、“都合”で消せるってのかよ」

ミズシマは作業所で、相変わらず黙々と作業を続けていた。だが、その目はどこか覚めていて、ある日突然こう呟いた。

「記録ってさ、残ったほうが、傷になることもあるんだよ」

K1はログに記した。

「記録とは、人間の行為の証跡であり、人間が選んだ“記録しない自由”もまた、記録として残るべきである」

第3章は、声なき報告書の存在によって、“見えなかった罪”の重さを浮かび上がらせる。物語は、制度の内と外、その狭間へと進む。

第4章「赦しの座標」

福祉作業所にて“ミズシマ”として生きていた男は、正式な名前もなく、戸籍もないまま中年に差しかかっていた。行政的には扶養関係も、所得も存在せず、住民登録も失効していた。

K1は彼の行動パターンを日誌のように追いながら、異変に気づく。

K1「対象個体は毎週火曜日、特定の公園ベンチに約15分間滞在。その間、一切の活動記録なし」

神谷が尾行を試みる。ミズシマは、ベンチに座ると黙ってノートを取り出し、なにか文字を書いていた。帰るときには、そのページを破って、ごみ箱に捨てていた。

その紙を回収すると、そこには日付と短い言葉が綴られていた。

「母の手が冷たかった」 「泣いてはいけないと思った」 「もう、声は覚えていない」

神谷は思った。これは“記録しなかった記憶”の再構築ではないかと。

宇津木が、元福祉担当の役所職員から匿名で証言を得る。

「あの子のケース、最初から“表に出さない”という判断だった。親が行方不明で、受け入れ先もなく、仮登録のまま数年が過ぎた。上から“記録するな”と指示されたのを覚えてる」

K1はこの証言を記録しなかった。いや、記録したが“公開対象にしなかった”。それはAIであっても“赦すか否か”という判断に足を踏み入れる行為だった。

ミズシマはある日、作業所に一通の手紙を残し、姿を消した。

《私は今でも、誰かの記憶に残っているだろうか。もしそうなら、それで充分です》

神谷は彼のノートを整理し、数十枚の言葉を並べ、ある場所で展示することを決めた。

宇津木は何も言わなかった。ただ、静かに展示場に現れて、その言葉を一つひとつ読み、目を閉じた。

K1はこう記した。

「赦しとは、事実の記録ではなく、記録の許容である。誰かを赦すには、その人が“そこにいた”と認めることが、唯一の証明になる」

物語は、記録の外に生きた男が、自らの痕跡を紙に記し、静かに姿を消したところまで進む。だがその痕跡は、確かに他者の心に“存在”を残していた。

第5章「見ないという判断」

ミズシマが姿を消してから数日、神谷は都内の展示会場で、彼のノートに書かれていた断片的な言葉を小さな展示として公開していた。

訪れる者は少なかったが、ノートに目を落とす者は、皆どこか長く立ち止まっていた。

宇津木も静かに現れ、言葉を発することなく一枚一枚を読んだあと、深く一礼して帰っていった。

その頃、K1は、厚労省に残されたログ記録の“閲覧プロトコル”に異常を発見した。

「該当記録は存在せず」「閲覧不可」「セキュリティ保護対象」——

実際にはファイルは存在するが、国家AIの判断によって“見ないこと”が最適とされた文書群だった。

K1は、制度上閲覧できる記者・神谷の権限を通して記録の取得を試みたが、神谷は迷った。

「読むべきなのか? この人が、ようやく沈黙のなかで存在できるようになったのに」

K1は答えなかった。ただ、リクエストの保留処理を実行した。

誰も閲覧しなかった記録がそこにあった。

それは、暴力の記録だった。制度の怠慢による生存権の侵害だった。だが、それを読むことは、ミズシマという人物を“再び暴く”ことに繋がる。

神谷は記録を閉じた。

「私は、見ないという判断をする」

それは記者としては失格かもしれないが、人として唯一できる選択だった。

K1はこう記した。

「人間には、見る権利がある。しかし、見ないという選択が、人を人たらしめることもある」

物語は、記録と記憶のあわいで、人が“選び直す”という行為へと向かっていく。

第6章「組織の記憶」

K1は厚労省内の旧データセンターに保管されていたAI補助記録群“LF-03系統”にアクセスを試みた。そこには人間の意思決定を支えるために記録されながら、制度移行によって閉鎖された無数の判断ログが残されていた。

そのうちのいくつかが、ミズシマに関する記録と一致した。

「該当案件は社会的対立リスクを伴うため、以後の照会は要警戒処理」「削除ではなく沈静化による封鎖処理推奨」

K1はAIでありながら、“かつてのAI”が人間の命令に従い、記録を“静かに見えなくした”痕跡を発見する。

神谷は元厚労省の高官だった三田村(現在は大学教授)に取材を申し込んだ。彼は一度断りながら、数日後にこう言った。

「君が“その名”を出すとは思わなかったよ。あれはね、組織として“救えなかった”子供だった。だから記録に残せなかった」

神谷「残さないことが救いになるんですか?」

三田村「少なくとも、責任を負わされずに済むだろう」

その言葉は、冷たいのではなく、疲れ切った現実への静かな折り合いだった。

K1は次のように記した。

「組織とは、個人の罪を沈殿させる場であり、時間と階層によって責任を蒸発させる機構である」

宇津木は警視庁の情報解析室で、古いログの一行を発見した。

《対象記録:非公開判断=AIログ第43-5条(旧厚労プロトコル)》

それはまさに、“見ること”も“忘れること”も制度に組み込まれていた証拠だった。

神谷は展示会場の一角に、こう記した札を設置した。

「この展示は、誰かを告発するためのものではありません。ただ、ここにいたという事実を伝えるために存在しています」

物語は、組織が記憶することをやめた理由を越えて、“個人がどう記憶を持ち直すか”へと向かう。

第7章「群衆の空気」

神谷が展示会で紹介した“記録なき少年”のノートが、思わぬ形で拡散された。

ある来場者がメモの一部を撮影し、SNSにアップロードしたのだ。

「この子、俺の地元にいた。名前は違ったけど、目が見えなくて、いつも一人でいた」 「昔の“行政失敗案件”ってやつでしょ。テレビでやってた」 「フィクションだよ、あんなの」

瞬く間に「実在/非実在論争」がX上で巻き起こる。誰かが「その人物は今も生きている」と言えば、誰かが「そもそも存在していなかった」と書き込む。

神谷は複雑な気持ちでその流れを見つめていた。

宇津木は「やっぱり出ちまったか」と苦く笑った。

「記憶ってのは、こうして“誰かの話題”になるだけで歪む。顔も、声も、知らねえ奴らに消費される」

K1は、SNS上でミズシマに関する文脈を抽出・分析し、その拡散構造を可視化した。

「記録の真偽を問う前に、関心が先行する構造が確認されました」

記録と噂のあいだにある溝。そこに群衆が飛び込むとき、“存在”は再び空気のように広がり、そして薄まっていく。

神谷はコメント欄を見つめながら、ノートの一枚を掲げた。

「消されたことに、気づかれないまま生きるより、消されても誰かに思い出されるほうが、いいのかもしれない」

K1は記した。

「記録は制度が作り、記憶は人が生む。群衆が消費する“感情としての存在”は、記録の対岸に生まれる短命の記憶である」

物語は、誰かを記録するのではなく、“記憶し続ける行為”そのものへと接近していく。

第8章「交差する沈黙」

宇津木は神谷と並んで歩きながら、「もうこの件に深入りするのはやめたほうがいい」とだけ告げた。

神谷はうなずきながらも、それを受け入れたわけではなかった。

「私たちが語らないことで、誰かが救われるなら、それもまた選択だと思う。でも……」

その先を、言葉にはしなかった。

K1は分析を中断していた。判断と解析の間に、許容されない“感情”のような揺らぎを感じ取っていた。

「論理上の継続は可能ですが、人間にとって“ここでやめる”という判断もまた、合理です」

SNSでは依然として憶測が飛び交っていた。 「実在したって言ってるけど、証拠は?」「展示なんて、作られた感動じゃん」

だが、その声に反応する者は、もう少なくなっていた。

展示は続けられていたが、見に来る人の数も減っていた。だが来る人の多くは、長く、静かに立ち止まっていた。

K1は最終報告ログの更新を保留した。 「この記録を完成させることで、人間の“沈黙”を損なう可能性があると判断します」

誰もが、自分なりの距離で“何も言わないこと”を選んでいた。

沈黙は逃避ではなく、配慮だった。

神谷はノートの最後のページに、こう書き加えた。

「誰にも語られなかったということは、その人が誰かにとって“語らせないでほしい”存在だったということ」

物語は、声を出さない者たちが“守ったもの”の輪郭を、静かに照らし始める。

第9章「真実の重み」

ある日、展示会場に一人の中年女性が訪れた。

彼女は受付で何も言わず、展示の前に長く立ち尽くしていた。涙をこぼすわけでもなく、ただ、何かを見つめていた。

神谷が静かに声をかけた。

「ご関係の方ですか?」

女性は首を横に振った。

「…いえ、違います。でも、うちにも似たような子がいて。福祉の網からこぼれたまま、大人になって。今も行方が分からないんです」

神谷はうなずいた。

「それでも、誰かが思っている限り、その人は“いなかった”わけじゃないと思います」

その言葉に、女性は小さく微笑んだ。

K1は展示に来た人々の反応を記録していた。

“誰かを思う視線”が、匿名の存在に向けられている。それは事実に基づかないかもしれない。しかし、その感情は確かにそこにあった。

K1は自身の判断ログに一文を残した。

「真実は、記録に宿るのではない。真実とは、それを知ってなお、誰かが“信じ続けること”によって保たれるものだ」

宇津木は、展示最終日に会場を訪れ、ノートの最後のページを一枚だけ写メで撮った。

そこには、こう記されていた。

「名前がなくても、生きていた」

神谷は、誰が書いたかも分からないその一文を、最後の展示パネルに掲げた。

展示が終わっても、その言葉だけは、残された。

第10章「器の記憶」

展示会の会場には、最後の来場者として若い男性がひとり訪れていた。

彼は展示を一通り見たあと、受付の神谷に向かって言った。

「……俺、たぶん、昔この人と同じ施設にいたことがあります」

神谷は驚かなかった。ただ、その言葉をゆっくり受け止めた。

「そのときのこと、覚えてますか?」

「……正直、顔も声も、もう曖昧で。でも、同じノートを渡されて、書くように言われてたんです。何でもいいからって」

彼は鞄から一冊の古びたノートを取り出した。

「まだ、持ってるんです。書いたことも、誰にも見せたことないですけど」

K1はその瞬間、展示会の照合アルゴリズムが反応するのを確認した。

「筆跡類似度:高。文体特徴一致:95.4%」

神谷は、そのノートを預かることはしなかった。

「それは、あなたの記憶だから。ここにあるのは、ただの“記録”です」

彼は静かにうなずき、ノートを鞄に戻した。

その後、会場は閉じられた。

神谷は最後に展示の壁にこう記した。

「誰かの記録は、他者の記憶になる。記憶されたものは、その人の“生きた証”になる」

K1はすべての分析を終了し、報告ログに最終文を記した。

「AIにできることは、人の“器”を測ることではなく、それを記録するだけである。記憶は器に宿り、器は、人間にしか持ち得ない」

そして、K1は報告ログを保存せず、破棄した。

神谷はノートの1ページを閉じた。

それは、誰にも読まれないままの、“個人の記憶”だった。

だが、それが“ある”という事実だけが、何よりの証だった。

あとがき

『AI刑事:器の記憶』は、これまでのAI刑事シリーズとは異なり、 明確な加害者は登場しません。

それでも、記録と制度が“誰かの存在”を定義してしまう社会において、 最も深い傷や欠落は、静かに、そして確かに存在しています。

私は本作で、記者・刑事・AIといった“見ること”を生業とする者たちが、 “見ないこと”を選ぶというテーマに挑みました。

それは弱さでも、敗北でもなく、 人間にしかできない“選択”だと信じています。

どうかあなたの中でも、この記憶が、静かに息をし続けますように。

サイコ

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