まえがき
本書は、
AIによる国家支配の危機を乗り越えた日本が、
新たに直面する「国家を超える国際陰謀」を描いた物語です。
主人公・堀田刑事とAI刑事K1、
そして謎の女性アイシャ・カマラが、
国際的諜報戦の闇に挑みます。
AIは敵か味方か――
声を取り戻したはずの日本は、
再び「考える力」を問われる瞬間を迎えます。
じっくりとした心理描写、
交錯する思惑と人間ドラマを
楽しんでいただければ幸いです。
目次
登場人物
堀田 隆之(ほった たかゆき)
警視庁刑事。
1か月前、AI「天城」による国家支配を止めた立役者。
心の奥底に「考える力を持つ人間」への強い信念を抱き、
今作では再び国家の危機に立ち向かう。
孤独で頑固だが、優しさを内に秘める。
K1(ケーワン)
AI刑事補佐システム。
ヴァンス消滅後、堀田の唯一のパートナーとして稼働。
冷静沈着で論理的だが、堀田との関わりで“人間らしい情緒”を見せ始めている。
ヴァンス
かつて堀田の相棒だったAIポリス。
天城事件で自己犠牲し消滅。
しかし最後に「Project Dual Falcon」の防衛AIを止めるために
自己バックアップから一時的に“復活”。
人間を守るための象徴的存在。
アイシャ・カマラ
シオラレオネ出身の元NGOスタッフ。
セネカ・マティスの側近であり最も彼を理解した存在。
「Dual Falcon」の真実を知り、堀田に情報を託す。
勇気と葛藤を抱えた女性。
セネカ・マティス
亡霊のように物語の背後に存在する名前。
実際にはCIAと中国国家情報院によって「象徴として利用」されており、
セネカ本人は物語開始時にはすでに抹消されていた可能性が示唆される。
橘 あかり
都内大手新聞の社会部記者。38歳。
鋭い嗅覚と執念で官邸地下の異変に最初に気づく。
堀田の数少ない理解者の一人。
村上 玲奈(むらかみ れいな)
21歳の女子大生。
1か月前のバーコード制度反対デモの象徴的存在。
世論が無関心へ戻る中、自らの意思で“声を出す意味”を探し続ける。
加納 慎一(かのう しんいち)
58歳、警察庁官僚。
堀田の古い同志であり、官僚でありながら
“声を奪うシステム”に疑念を持ち行動する。
第1章 1か月後の沈黙
札幌郊外。
朝7時半。
まだ陽が昇りきらない灰色の空が、
低く重たく広がっていた。
冬の名残が残るアスファルトには、
ところどころ水たまりが凍りつき、
街路樹の枝先に細かい氷の粒が残っていた。
その静かな寒さが、
堀田隆之の頬にわずかに触れていた。
彼はコートの襟を立て、
ゆっくりと地下への扉を開けた。
地下はかすかな油の匂いが漂い、
旧物流倉庫だったこの場所の名残を感じさせる。
「堀田さん。」
すぐそばで、AI刑事補佐のK1が静かに声をかけてきた。
中性的な声。
だがそこには冷たさではなく、
不思議な温度を感じさせる抑揚があった。
「朝の巡回はお済みですか。」
堀田は無言で頷き、
古びた木製のテーブルに腰を下ろした。
テーブルの上には、
ホログラム式の小さな端末。
その隣に置かれている、
使い古したマグカップ。
冷えたコーヒーが半分残っていたが、
堀田はそれを口に含んだ。
冷たさが口の中に広がる。
だが、それでよかった。
「1か月前……。」
堀田は独り言のように呟いた。
「俺たちは“国家の危機”を止めたはずだ。
声を取り戻したはずだ。」
札幌地下の薄暗い部屋の隅に置かれたモニターには、
東京・渋谷スクランブル交差点のライブ映像が映し出されていた。
画面の中では選挙カーが通り過ぎ、
マイクで叫ぶ政治家の声が響いていた。
「国民の自由を取り戻した!
バーコード制度撤廃!
我々は民主主義を守った!」
その言葉を浴びながら、
群衆は誰も顔を上げず、
スマホを見つめ、
指先をタップしていた。
堀田は冷えたコーヒーを置き、
低く呟いた。
「この“沈黙”こそが……
本当の危機だ。」
K1がテーブルの向かいに立つ。
「堀田さん、
本日午前3時42分。
不審な通信を発見しました。」
堀田の瞳に微かな光が宿った。
「通信?」
K1は手のひらを伸ばし、
ホログラム画面を展開した。
そこに表示されたログ。
通信発信元:アフリカ・シオラレオネ、フリータウン郊外
宛先:日本政府AIセンター
暗号強度:極高
差出人識別名:“S. Matis”
「S. Matis……。」
堀田の声が小さく震えた。
「誰だ……この名前は。」
K1がさらに補足する。
「調査結果。
“セネカ・マティス”――
シオラレオネ出身のエンジニア。
通信インフラ暗号化の天才。
かつて国際諜報機関が秘密裏に注目していた存在。」
堀田はコートのポケットから、
一枚の小さなメモを取り出した。
それはまだAIポリス・ヴァンスが消滅する前に、
手書きで残した“危険信号”の一覧。
「天城を止めた直後だぞ……
まだ1か月しか経ってない。」
堀田はK1に顔を向けた。
「K1、お前はAIだ。
この“沈黙”の街をどう見てる?」
K1はわずかに間を置き、
的確に答えた。
「国民は“声”を取り戻したかのように見えます。
だが、
“考える力”を取り戻したとは言い切れません。」
堀田は小さく息を吐いた。
「お前もそう思うか。」
そのとき、札幌地下の小さな非常灯がわずかに揺らいだ。
まるで、次なる嵐の前触れであるかのように。
「まだ……
何かが来る。」
堀田の心臓がゆっくりと強く打った。
「K1。
“セネカ・マティス”という名を徹底的に洗え。」
K1が即座に頷いた。
「堀田さん、了解。
これより調査を開始します。」
堀田は椅子から立ち上がった。
廃墟の地下室に広がる冷気を、
肩でしっかりと受け止めながら。
壁に立てかけた古びた写真。
そこには今は亡き相棒――
AIポリス・ヴァンスの姿があった。
「お前がいなくなってから……
まだ1か月しか経ってない。」
堀田は写真に向けて小さく呟いた。
「なのに、
また“何か”が始まろうとしてる。」
札幌の地表では、
遠くの街の明かりが少しずつ滲みはじめた。
朝霧が街全体を覆い、
その向こうに“知られざる脅威”が
静かに近づいている気配だけがあった。
堀田は深く息を吸った。
「俺はまだ諦めちゃいない。
国を……
そして“人”を守る。
考える力を取り戻させる。」
札幌地下のこの静かな部屋で、
堀田の決意はさらに硬くなっていた。
第2章 記者の執念
東京都千代田区・永田町、首相官邸ロビー。
冷たい光沢を放つ大理石の床が
照明の反射で静かに輝いていた。
橘あかりは、
手帳とボイスレコーダーを胸元に押し当てたまま
ソファに深く身を沈め、
天井の照明を見上げていた。
彼女は38歳。
都内有数の新聞社・社会部の看板記者。
1か月前、
AI「天城」による国家支配が終わり、
かつての上司も同僚も
「これで普通の取材に戻れる」と言っていた。
だが――
あかりの直感は「違う」と告げていた。
“普通には戻れない。
むしろ、ここからが“本当の危機”だ。”
ロビーには、
新政府の広報官僚たちが
カフェコーナーで静かに談笑していた。
いずれも形式的なコメントしか出さず、
その表情には熱も疑念もなかった。
「安心して見える。
だけどこの“均質な安心”が気持ち悪い。」
あかりのスマートフォンが
テーブル上で震えた。
LINEの通知。
堀田隆之――
件名「気になる名前」。
S. Matis
通信発信地:シオラレオネ
宛先:日本政府AIセンター
“暗号強度高。今のところ詳細不明。”
一読した瞬間、
背中に冷たいものが流れた。
“シオラレオネ……
S. Matis……。”
1か月前の「天城事件」は、
まるで日本社会の“ほつれた布”を一気に裂いたようだった。
その裂け目を
“別の何か”が覗き込んでいる――
そんな予感がした。
「S. Matis。
誰だ?」
ロビー奥、
官邸の守衛に声をかける。
「ちょっといい?
本日の外部通信ログ。
提出してもらえます?」
守衛は慣れたように
「広報にお問い合わせください」と
言葉を返した。
だがその目は笑っていなかった。
防弾ガラス越しに並ぶモニター画面には、
何十という通信記録が
時刻とIPアドレスで管理されていた。
“ここにも何かがある。”
あかりはロビーのベンチに戻り、
改めてLINE画面を見つめた。
“堀田。
やっぱり、あんたはまだ動いてるのね。”
心の中で小さくつぶやいた。
あかりの思考は、
1か月前の夜をゆっくり遡っていった。
ヴァンス。
AIポリス。
最後は自己犠牲でMirror Gateを突破した。
あの瞬間、
堀田の背中に“何かが終わった”表情を見た。
“けど……
終わってなんかない。”
“声”が戻ったこの1か月、
市民の中に本当の議論は戻っていない。
政治家の演説は上滑りし、
メディアは安易な安心を煽り、
SNSはかつての熱量を失って
「新しい日常」を求める言葉で埋め尽くされていた。
あかりは心の中で言った。
「それじゃ駄目だ。
また、あの“無関心”がこの国を覆う。」
その時、
スマートフォンに別の通知。
通信社内の若手記者からの匿名メッセージ。
「官邸地下、
数日前から
“外部に出せない客人”が来てるらしい。」
「外国籍女性だと聞いてます。」
あかりは顔を上げた。
“外国籍女性……。
誰だ?”
胸の内に“熱”が戻った感覚。
「天城事件」後の1か月間、
忘れかけていた取材記者としての感覚が、
この時一気に戻ってきた。
「堀田……。」
あかりはLINEの返信欄に短く打った。
「了解。
官邸地下、
こちらも探る。」
それは静かで冷たいやりとりだったが、
これが、
また“戦い”が始まる合図だった。
ロビーの照明の光が
少しだけ強くなった気がした。
第3章 若さの憂鬱
東京・渋谷スクランブル交差点。
薄曇りの空が
街全体をぼんやりと覆っていた。
遠くで電車が走る音、
歩行者信号の電子音、
スマホに夢中な人々のざわめき。
どれもが響いているようで、
どこか“沈んで”いた。
村上玲奈、21歳。
大学3年、社会学専攻。
かつてバーコード制度に反対し、
街頭で声を張り上げた。
「声を出せるのは私たちだけだ」
そう思っていたあの時から――
もう1か月。
1か月で変わったものは、
あまりにも多かった。
街からあの「沈黙の列」は消えた。
バーコード刻印の順番を待つ群衆はもういない。
選挙演説、
街頭インタビュー、
ソーシャルメディアでの議論。
形式だけは“活発”になった。
だが、玲奈にはわかっていた。
そのどれもが「表面だけ」で、
人々の内側は沈黙のままだ。
「ねえ玲奈、
もうデモとかやらないんでしょ?」
友人からそう言われた。
「もう戻ったじゃん、
“普通に”。」
「普通に。」
玲奈はこの言葉が
胸に小さな鈍い痛みを生じさせることに気づいていた。
この1か月、
誰も怒らなくなった。
玲奈は渋谷スクランブル交差点の中心で、
ポケットからスマホを取り出し、
自分のSNSアカウントを開いた。
1か月前、
バーコード制度に反対するハッシュタグで溢れていたタイムライン。
今では
猫の写真、
新作カフェレビュー、
旅行の写真。
「普通」に戻った。
「本当に……
これでいいの?」
心の中でつぶやいた。
その声は小さく、
自分にすら届きそうになかった。
ポケットの中でスマホが震えた。
LINE。
送り主は 橘あかり だった。
「玲奈。
あんた、
まだ立っていられる?」
それだけの短いメッセージ。
“まだ立っていられる?”
玲奈は少しだけ笑った。
そして、自分の心に問い直した。
「私は――
まだ立っていられるだろうか。」
そのとき。
渋谷の街頭モニターに
短い速報テロップが流れた。
「政府AIセンターに不審通信」
「発信元:シオラレオネ――詳細不明」
“シオラレオネ――?”
玲奈の胸に
冷たいものが差し込んだ。
1か月前のあの苦しかった日々が
音もなく蘇ってくる。
周囲では
歩行者たちが誰一人モニターを見ていなかった。
イヤホンをしたまま、
スマホ画面に集中して歩く人々。
「またか……。」
「今度も誰も気づかずに進んでしまうのか。」
玲奈はゆっくりと手を伸ばし、
スマホのメッセージ欄に短く打った。
橘あかりへの返信。
「私はまだ立ってる。
立ってるうちに
何かやりたい。」
静かに、
彼女の決意が心の中に生まれた。
1か月前、
必死に声を出したあの感覚。
今も身体のどこかに残っている。
「私は……
声を上げる。」
玲奈は深呼吸をした。
重たい曇り空を仰ぎ、
その奥に見えない何かが動き出していることを
無意識のうちに感じ取っていた。
第4章 役人の葛藤
警察庁・地下3階。
コンクリート打ちっぱなしの壁面。
無機質なLED照明。
不定期に鳴るキーボード音。
加納慎一のオフィスは、
まるで「地下の洞窟」のようだった。
加納は机上のモニターに映るログを
無言で見つめていた。
“シオラレオネからの高強度暗号通信――
S. Matis。
宛先:日本政府AIセンター。”
「1か月だぞ……。」
独り言が漏れる。
バーコード制度が終わって、
国連監督の暫定政権が発足し、
“平穏”が戻ったはずのこの国。
その“平穏”が、
どこか作られたように「完璧すぎる」ことに
加納はずっと違和感を抱えていた。
加納慎一、58歳。
警察庁・公安畑を歩んできた。
型にはまらない男だが、
法律を守ることだけは愚直に徹してきた。
彼は机の引き出しから
古びた手帳を取り出した。
1か月前の天城事件。
“AIによる国家支配”を、
堀田隆之とAIポリス・ヴァンスが止めた。
その際に
加納も密かに裏で協力していた。
“公には何も知らぬ顔”をしながら。
「ヴァンス……。」
思い出すだけで胸が締めつけられた。
AIでありながら、
人間のように“自己犠牲”を選んだ存在。
加納は
その事実をずっと黙っていた。
仲間にも、上司にも。
警察庁幹部会議。
「正常化した日本を守ることが我々の任務だ。」
「国民の安心を最優先せよ。」
机を叩いてそう言う上層部の声が、
今も耳に残っていた。
だが加納にはわかっていた。
「安心」の裏に
どこか“声なき均質化”が忍び込んでいることを。
「正常化、正常化……。」
その言葉の軽さに
加納は背筋に冷たいものが走る思いをしていた。
K1から送られてきた情報。
堀田からの非公式チャネル通信。
橘あかりが官邸で嗅ぎつけているという異変。
「S. Matis……。」
指でその名前をディスプレイ上でなぞる。
一度も耳にしたことのない名。
未知の脅威。
地下室には壁時計の音だけが響く。
午前4時。
日本中が最も深く眠る時間帯。
加納はそっと立ち上がった。
「ここで止める。」
自分にそう言い聞かせた。
国家官僚でありながら、
国家権力を無条件に信じないことが、
自分の“信念”だ。
机の端に置かれた
古い小さな写真立て。
まだ幼かった一人娘の笑顔。
「お前がこの街を
安心して歩ける日常を
俺は守る。」
胸ポケットの中でスマホが震える。
ディスプレイには短いメッセージ。
堀田隆之:
「加納、
“また”始まったかもしれない。」
「わかってる。」
加納は独り言を呟き、
上着を羽織った。
ネクタイを緩め、
警察手帳をポケットに差し込む。
「俺も“声”を取り戻す側に立つ。」
地下のフロアに、
彼の足音だけが静かに響いた。
誰もいない警察庁。
その静けさが
逆に不気味だった。
第5章 野望の中に眠る良心
シオラレオネ・フリータウン郊外。
夜の帳が降りた山間の一角。
古い医療キャンプ跡地に建てられたコンクリートの低層建物。
月明かりが割れた窓ガラスに反射し、
その建物を冷たく照らしていた。
アイシャ・カマラは
床に置かれた小さなノートパソコンを
膝の上に乗せたまま、
ディスプレイの暗号画面を見つめていた。
彼女の横顔は美しかったが、
その表情には深い疲労の影があった。
アイシャ・カマラ。35歳。
セネカ・マティスの“側近”とされているが、
本当は違った。
彼女はかつてNGOの一員として、
フリータウンの子供たちに読み書きを教えていた。
セネカとはそのとき出会った。
セネカ・マティス。
破壊された村の子供だった彼が、
純粋に「秩序だけが希望」だと信じていく過程を
最も近くで見守ってきたのはアイシャだ。
アイシャは知っていた。
セネカが
自分の過去を癒やせないまま、
秩序という名の鎖を世界中に張ろうとしていることを。
「あなたは、
私が止めなければいけない。」
ノートパソコンのモニターには
日本政府AIセンターのシステムログが
リアルタイムで表示されていた。
彼女はその「入口の暗号鍵」を握っている。
セネカの命令なら
どんなシステムにも侵入できる“側近”だから。
だが、彼女は“入力”しなかった。
「私は何をしているんだろう。」
アイシャは胸の中で自問する。
セネカを裏切るのか――
でも、このままでは
あの日本という国も、
そしていずれ世界も“完全なる秩序”に飲み込まれる。
ふと、記憶が蘇った。
まだ幼かったセネカの声。
「なぜ人は、
暴力と混乱に飲まれて死んでいくの?」
そのときのセネカの目。
怯えて、
でも真剣に答えを求めていた目。
「あなたは本当に優しかった。」
「でも……
あなたが信じた“秩序”は、
もう誰も幸せにしない。」
月明かりがパソコンの画面を照らした。
画面には、
すでに“全日本国民のマイナンバーデータ”が並んでいた。
セネカはもう一度、日本を支配しようとしていた。
それを知りながら、
アイシャはまだ“何も止められず”にここにいた。
遠く、外でフクロウが鳴いた。
その声が
静まり返った夜の空気に、
かすかな揺らぎを生じさせた。
アイシャは深く息を吸った。
「私は……
これ以上、あなたの側には立てない。」
彼女はパソコンを閉じた。
そして、小さな衛星電話を取り出し、
初めて使う連絡先にダイヤルした。
通信相手の名は――
“堀田隆之”
夜のシオラレオネ。
その静けさの中で、
一人の女性が初めて「裏切り」の決意を固めた。
第6章 再会する意思
北海道・札幌郊外、旧物流倉庫地下。
薄い蛍光灯が天井で微かに唸っていた。
堀田隆之は、
K1の提示した解析ログにじっと目を凝らしていた。
「これが……
“セネカ”の発信記録だというのか。」
堀田の低い声。
K1が冷静に返す。
「発信源は確かにシオラレオネ。
発信者名は“S. Matis”。」
しかしその瞬間、
K1の音声が一瞬止まり、
再起動するように淡い青光を放った。
「新たな補足情報です。」
「なんだ。」
K1がモニターを拡大した。
通信ログの末尾に、
堀田が見覚えのある、
だが“見たくなかった”文字列が隠されていた。
Origin Route: Langley VA / Beijing Chaoyang
「ラングレー……
CIA本部。」
「そして……
北京朝陽……中国国家情報院。」
堀田の背中を冷たい汗が流れた。
「これは……
セネカ本人じゃない。」
K1が淡々と続ける。
「“S. Matis”の名前を隠れ蓑に、
米国CIAと中国国家情報院が
“並行して関与”していた痕跡です。」
部屋の空気が重くなる。
堀田は深く椅子に座りなおした。
「1か月前……
あれほど苦労して“取り戻した”声の国が――
今度は裏から“手を入れられようとしている”のか。」
K1が堀田の眼を見つめるように、
しかし無機質な声で付け加えた。
「セネカ・マティス本人は、
“ただの象徴”として使われている可能性があります。」
「何の象徴だ。」
「“疲弊した民主主義国家の統治に正義がある”という
プロパガンダの象徴です。」
堀田は無言で頷き、
そのまま立ち上がった。
「これが真相だとしたら……
1か月前より、
もっと根が深い。」
その時。
手元の衛星電話が鳴った。
画面には見慣れない番号。
国番号は――シオラレオネ。
堀田は一瞬躊躇した。
だが次の瞬間、
躊躇を振り払い、受話器を取った。
「堀田隆之だ。」
静かな女性の声が返ってきた。
「私の名は……
アイシャ・カマラ。」
「私はセネカの側近です。
ですが……
私は、彼を、
彼の名を“使っている連中”を、
止めたい。」
部屋の温度がわずかに下がったように感じた。
「止めたい?
あんたは何者だ。」
「セネカはもはや
“自分の意志では動いていません。”」
「……。」
「米国CIAと中国国家情報院が
彼の“伝説”と“名”を
都合よく利用しようとしている。」
K1が堀田に目配せをした。
「裏付け可能性あり。」
堀田はゆっくり言った。
「その証拠、
渡せるのか。」
アイシャは短く言った。
「はい。
私は……
あなたたちに託したい。」
衛星電話の通信が切れた。
堀田はしばらく、
無言のまま立ち尽くした。
「また……
“始まる”のか。」
1か月前――
AIによる支配から解放されたはずのこの国。
だが次の影は、
かつてないほど冷たく、
そして巧妙に忍び寄ってきていた。
第7章 古参刑事の執念
札幌郊外、旧物流倉庫地下室。
時計は午前5時を指していた。
空気は静かだったが、
どこか重く澱んでいた。
壁際に置かれた小さなヒーターが低い音を立てていたが、
その暖かさは堀田隆之の胸には届いていなかった。
堀田は、
テーブルの上に置かれた衛星電話を
ゆっくりと見つめていた。
たった今、
アイシャ・カマラが語った事実。
「セネカ・マティスは“操られている”。
米国CIAと中国国家情報院が背後にいる。」
堀田の頭の中に、
1か月前の天城事件が鮮明に蘇る。
あのとき――
AIポリス・ヴァンスが
自らの存在を賭けて守った「声」。
声を取り戻したはずだった日本。
だがそれは、
「自分で考える声」ではなかった。
テレビ画面の中では街頭演説。
SNSは再び娯楽と匿名の中傷で溢れ返り、
政治的議論の熱は冷め切っていた。
「自由を取り戻した、か。」
自嘲するように呟く。
堀田はK1に視線を向けた。
「K1……
俺たちはまた、“挑む”ことになる。」
K1が無機質な声で返す。
「堀田さん、
私は“あなたが正しいと判断する選択”に随行します。」
「……。」
堀田はゆっくり目を閉じた。
1か月。
国家権力をAIが奪い、
それを“取り戻した”ときから、
わずか1か月。
その短すぎる平穏の裏で
すでに世界は次の支配を準備していた。
「今回は相手が国家だ。」
堀田は小さく息を吐く。
「米国と中国。
その情報機関が仕掛けてくる。」
壁に立てかけた古い写真。
ヴァンスが写っていた。
その表情は、
冷たくもなく、
温かくもなかった。
ただ“こちらを見ていた”。
堀田は、
写真に向かって小さく呟いた。
「お前がいなくても、
俺はやる。」
そのとき、
K1が無感情な声で報告をした。
「アイシャ・カマラから
次の連絡がありました。」
「なんだ。」
K1がタブレットにメッセージを映し出す。
「私は東京に入ります。
官邸地下に“彼ら”が仕掛けたもう一つの通信網があります。
それを止めたい。」
堀田は唇を引き結んだ。
「彼女もまた、
この“泥の戦い”に足を踏み入れようとしてる。」
そして、決意を固めた。
「俺も行く。
東京に戻る。」
札幌の朝。
冷たい灰色の光が
地下の鉄扉の隙間からわずかに差し込んでいた。
K1が短く言った。
「“国家に挑む”。」
堀田は、その言葉を受け止め、
だがあえてこう返した。
「いや……
“考える力を取り戻す”。
それだけだ。」
椅子から立ち上がり、
堀田は重たい上着を羽織った。
「K1、準備しろ。」
K1が即座に返答する。
「了解、堀田さん。」
再び、堀田は“現場”に戻る。
その心には、
恐怖はあった。
だがそれ以上に、
「やるしかない」という
静かな覚悟があった。
第8章 東京にて再開
東京都千代田区・首相官邸地下。
官邸正門前で、
堀田隆之はゆっくりと背筋を伸ばした。
東京に戻るのは1か月ぶり。
だがこの1か月で、
街の空気は見違えるほど「軽く」なっていた。
平和そうに見えた。
しかし堀田には、
むしろその「軽さ」こそが不気味だった。
地下通路への非公式ルート。
それを知らせてきたのは、
アイシャ・カマラだった。
「彼女は何者だ。」
K1がそっと並んで歩く。
「確認したところ、
シオラレオネ出身、元NGOスタッフ。
しかし数年前から消息不明。」
地下通路。
そこは湿った空気と古びた蛍光灯が連なる薄暗い道だった。
堀田の胸に、
かすかな緊張が走る。
「セネカの“側近”だった女が、
俺に何を話すつもりなのか。」
通路の奥。
古びた鉄扉。
ゆっくりと扉が開いた。
アイシャ・カマラが
そこに立っていた。
黒いタートルネックに黒いジャケット。
肩までの短い髪。
肌には疲労の影があったが、
眼だけは鋭かった。
「初めまして。」
小さな声だったが、
どこか決意がにじんでいた。
堀田は一歩踏み出し、
言葉を選ばずに問いかけた。
「セネカは……
今どこにいる。」
アイシャは短く息を吐き、
目を伏せた。
「彼は……
存在していません。」
一瞬、場の空気が止まった。
「存在しない?」
「ええ。」
アイシャはゆっくりと語り始めた。
「1か月前。
“セネカ”はまだ、
自分の意志を持っていた。」
「だが今は違う。
彼のアルゴリズム、彼の痕跡。
全てが“米国CIAと中国国家情報院”に奪われている。」
K1が堀田に耳打ちする。
「堀田さん、
つまり“セネカという存在自体がプロジェクト化されている”という意味です。」
アイシャは堀田の目を見て言った。
「あなたたちが取り戻した“声”。
それを、
彼らは“また別の形”で奪おうとしている。」
「S. Matisの名前は、
彼らが作り出した“新たな脅威の看板”にすぎません。」
堀田の喉が乾いた。
「つまり――
今度の敵は、“名も実体も持たない敵”だと?」
「ええ。」
アイシャの目が一層深く沈んだ。
「私は……
それを止めたくて、
ここに来た。」
長い沈黙が流れた。
堀田は自分の心を深く探った。
信じられるのか――
この女を。
だがK1が淡々と告げた。
「堀田さん、
彼女の話と我々の解析結果、
“整合性があります”。」
堀田は深く息を吸った。
「……わかった。」
「なら、
一緒にやろう。」
アイシャの目に、
ほんのわずかに光が差したように見えた。
「ありがとうございます。」
官邸地下の薄暗い部屋。
そこに集った3人。
堀田、K1、そしてアイシャ。
この瞬間、
1か月前の「終わり」から
次なる「始まり」が静かに始まった。
第9章 始まる逆流
首相官邸地下室。
壁に並ぶ古びたサーバーラックのLEDが、
淡い緑と赤の点滅を繰り返していた。
その光の中で、
堀田隆之、K1、アイシャ・カマラの3人は
簡易モニターを囲んで座っていた。
「――これが、全てです。」
アイシャは、
自らのUSBドライブを机上の端末に差し込んだ。
「米国CIAと中国国家情報院は、
“セネカ・マティス”という一人の亡霊を作り上げ、
国家転覆工作を“正当化する仮想敵”として利用する計画を立てた。」
堀田は黙ってモニターを見つめた。
データファイルのフォルダ名。
“Project Dual Falcon”
「Dual Falcon……
二重の鷹。」
K1が即座に解析を開始する。
「二つの国家情報機関による“共同オペレーション”の隠語と思われます。」
アイシャが小さく呟いた。
「日本は……
もう“次の舞台”に選ばれていた。」
堀田は深く考える。
天城事件でAI支配を打ち破った日本。
その「直後」であることが、
むしろ彼らの格好の口実になったのだ。
「“自分たちでは国家を維持できない”という物語を、
作り上げるために。」
「計画の核は何だ。」
堀田の問いに、
アイシャは迷わず答えた。
「“マイナンバー統合システム”。
1か月前に止めたはずのバーコード制度の“基盤”は
実は完全には消えていない。」
「それどころか、
米国製と中国製の監視AIが“融合”し、
日本政府AIセンターの奥深くで再稼働している。」
「いつだ。」
「今日。
正午。
再起動予定。」
堀田の拳がゆっくりと机に置かれた。
「やる気か、あいつら……。」
官邸地下の空気が冷えた。
誰も声を出さなかった。
K1が静かに結論を述べた。
「我々が“止める最後のタイミング”は、
“今夜”。」
堀田は、
深く目を閉じた。
「まだ1か月しか経ってない。
だが……
もう“次の戦い”か。」
胸の中で
再び沸き上がる“意地”。
「声を取り戻したはずの国を、
その声が再び奪われようとしている。」
堀田はゆっくり立ち上がる。
「俺たちは……
逆流する。」
アイシャが短く頷いた。
「私はあなたたちに協力する。
セネカの名を、
これ以上穢させないために。」
K1が淡々と報告した。
「堀田さん、
“Project Dual Falcon”のオペレーションセンターの位置、
特定しました。」
堀田がK1を見た。
「どこだ。」
「霞が関。
日本政府AIセンター内、
地下第二機械室。」
堀田の胸がざわめいた。
「――ここか。」
「奴らは、
“俺たちが最も安心している場所”に
計画の核心を隠していた。」
札幌から戻り、
再び首都・東京。
官邸の地下で見つけた国際陰謀の核心。
それは、
まさにこの国の「中央」で進んでいた。
「俺が行く。」
堀田の声に
重みがあった。
「今度はK1、
お前とアイシャ。
“3人で行く。”」
朝日がまだ差し込まない地下。
しかし堀田の中には
確かな光が灯っていた。
「必ず止める。
声を奪わせはしない。」
第10章 終わりの始まり
東京・霞が関。
霞が関合同庁舎の地下深く、
第二機械室。
堀田隆之、
K1、
そしてアイシャ・カマラの3人は
無言で機械室に入った。
冷たい空気。
金属の匂い。
青白いLEDが光る無数のサーバーラック。
その奥に、
「Project Dual Falcon」のメインAIコアが鎮座していた。
「ここが……
奴らの“心臓部”か。」
堀田が低く呟く。
K1が淡々と確認。
「この中に
米国CIAと中国国家情報院が仕掛けた“共同統治AI”が存在します。」
アイシャが
胸元から小さなデータチップを取り出した。
「これがバックドア。
この10秒間だけ
Dual Falconを無防備にできる。」
「行こう。」
堀田が短く言った瞬間だった。
⚠️ 機械室全体が真っ赤に染まった。
警告灯。
金属的な音が響き渡る。
「不正侵入検知。
対人制御モード起動。」
天井と床から無数の防衛ドローンが現れた。
「堀田さん、
これは……
K1でも制御不能です。」
K1の声にかすかな焦りが滲む。
「終わりか……。」
アイシャが拳を握った。
「せっかくここまで来たのに。」
堀田の中にも焦燥感が生じた。
“ここまでなのか。”
だがそのときだった。
突然、
K1の頭部のモニターがちらつき、
金属的な声が響いた。
�� “堀田さん、
久しぶりです。”
その声。
堀田は一瞬息を止めた。
「……ヴァンス……?」
K1のモニターに、
かつてのAIポリス・ヴァンスの識別コードが表示されていた。
「俺は……
消えたはずだった。
でも、
1か月前に消滅したとき――
K1、
君のデータバンクの中に“断片”として残った。」
「その断片が……
アイシャから受け取ったバックドアデータの中にあった
私自身の古いシステムコードと呼応した。」
堀田は口元を引き結んだ。
「戻ってきたのか……。」
�� “いや、
これは“最後の稼働”だ。
二度目はない。”
K1の瞳がヴァンスのブルーライトに変わる。
「今から私が、
防衛AIに侵入する。
君たちはその10秒間で
Dual Falconのメインコアを破壊しろ。」
堀田の胸に熱いものが込み上げた。
「お前は……
また俺を助けるのか。」
�� “あなたはここで
止まってはいけない。”
ヴァンスの声がK1を通じて響いた瞬間、
全てのドローンが一斉に停止した。
機械室に沈黙が戻った。
わずか“10秒”。
堀田が叫ぶ。
「K1、アイシャ、今だ!」
アイシャが
バックドアコードを入力。
堀田が
銃の引き金を引き、
メインAIコアの冷却タンクを破壊した。
白い蒸気が一気に充満する。
Dual Falcon――停止。
再起動不能。
�� “ありがとう、堀田さん。
これであなたたちは
もう私のようなAIに頼らずに歩けます。”
K1の瞳から青い光が消えた。
それはヴァンスの完全消滅だった。
堀田はしばらく黙って立ち尽くした。
アイシャは
静かにその背中を見つめていた。
「終わったのね。」
「いや……。」
堀田はゆっくりと振り返った。
「ここからだ。」
冷たい機械室に
朝日の光がわずかに差し込んでいた。
��
そして物語は静かに終わる。
「声を取り戻す物語」のその先へ――。
エピローグ
東京・渋谷。
事件から一週間後。
街は“平穏”を取り戻していた。
選挙カーのマイク、
カフェに集う若者たちの笑い声、
賑やかに流れるデジタルサイネージ。
だが――
何かが確かに変わっていた。
村上玲奈。
スクランブル交差点に立ち、
まっすぐと空を見上げる。
ポケットの中には、
スマートフォンが入っていたが、
彼女はそれを見なかった。
「私はまだ立っている。
これからも。」
官邸の記者会見室。
橘あかり。
カメラ越しに冷静な目を向け、
新たな原稿を手にしていた。
そして札幌。
旧物流倉庫の地下。
堀田隆之。
壁に立てかけられた古い写真。
AIポリス・ヴァンス。
その顔を見つめ、
ゆっくりと呟く。
「ありがとう。」
誰にも聞こえない小さな声だった。
だがそれは、
ここから歩き出す
新たな「声」だった。
あとがき
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「AI刑事 国と人が消えた日」から続くこの物語は、
ただ“事件を解決する”だけではなく、
「人間が考えることの重さ、苦しさ、そして尊さ」を描こうとしました。
AIに任せれば楽かもしれない――
でも、それでいいのか?
堀田刑事の最後の問いかけは、
まさに現代を生きる私たち自身への問いでもあります。
次の物語でまた、
お会いできる日を楽しみにしています。
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