まえがき
本作『AI刑事 声の迷宮』は、
「声だけで人を支配する」という現代的かつ不可視の犯罪をテーマに、
AI刑事シリーズでありながら、人間の心理、迷い、沈黙、責任をじっくりと描きました。
物語は、「声」の正体を追う刑事・堀田隆之が、
“声の送り手”を探す中で、自らの内面の「引き受ける覚悟」と向き合う過程を描きます。
読者の皆さまが本作を通じて、
人間にしか持ち得ない“曖昧さ”や“迷い”の奥行きを感じていただければ幸いです。
目次
登場人物一覧
堀田隆之(ほった たかゆき)・55歳
警視庁ベテラン刑事。AIでは補えない“人間の迷い”にこだわる。
出し子逮捕の背後に潜む「声だけの犯人」を追う。
橘沙耶(たちばな さや)・38歳
警視庁記録管理官。冷静沈着だが、過去に水原由紀子と接点を持つ。
物語終盤、真犯人としての顔を見せる。
水原由紀子(みずはら ゆきこ)・不詳(十年前失踪)
元HMPD(警視庁広報音声設計部門)の天才的技術者。
「声だけで人を操作する」手法を編み出し、自らの存在を“声”に変えた。
水原浩司(みずはら こうじ)・60歳
元警視庁捜査一課長。由紀子の父。
板橋事件以来、沈黙を貫き、堀田に手がかりを与える。
出し子の男(仮名不詳)・43歳
事件で最初に逮捕された実行犯。
「見てはいけない。考えなくていい」と“声”に従っていた。
第1章 未記録の引き出し
東京都内、下町の小さな信用金庫。
堀田隆之はATM前で立ち尽くす老女を見つめていた。
小柄な背中がわずかに震えている。
カードを取り出そうとして手が止まっていた。
「引き出して……いいんだよね。」
老女は誰にともなく呟いた。
ATM画面には「振込受付完了」の文字。
だが画面に映る操作履歴には、まるで別人が後ろから指示したかのような形跡があった。
その振込先。
調べた限り、複数の詐欺事件に絡むものだった。
捜査会議室。
堀田は証拠資料を広げていた。
「現場でカードを引き出した“出し子”は捕まえた。
だが、指示役は見えない。
被害者は“誰の声だったかもわからない”と言う。」
そこへ元同僚の刑事、村上が入ってきた。
「堀田さん、取調べの“出し子”は何も語らないよ。
“自分はただATMで金を引き出しただけ”だと。」
堀田は低く返した。
「“ただ引き出しただけ”が通用するなら、
世の中これほど“沈黙する真相”ばかりにはならない。」
机上の資料。
その中の一枚に引っかかるものがあった。
「この引き出しは、午前9時17分。
振込が完了したのは9時3分。
……間が短すぎる。」
夜、堀田は拘置所の面会室で“出し子”と向かい合った。
40代前半の男、曖昧な笑みを浮かべていた。
「俺はただ引き出しただけだ。
受け子と違って、人に会ってもないし、
指示は“ただ場所を教えられただけ”。」
堀田はゆっくりと尋ねた。
「だが、お前はどこに振り込まれた金なのか知ってたはずだ。」
男は肩をすくめた。
「さあな。
“誰か”が金を入れてくれる、それだけの話だ。」
堀田は黙ったまま立ち上がった。
面会室のドアに手をかけたとき、
男の声が背後から響いた。
「俺は“この役割だけ果たせばいい”って言われたんだ。
そいつは電話越しで、
“お前は見てはいけない。考えなくていい”って。」
堀田は振り返らなかった。
“見てはいけない。考えなくていい。”
その言葉が頭に残った。
ATM操作履歴を改めて見直す。
操作順序は完璧だった。
老人の手元に不自然な揺らぎもなく、
まるで訓練されたような正確さ。
堀田は呟いた。
「この操作は“被害者自身の手”で行われていた。
だが“誰の意志”だったんだ。」
第2章 沈黙する声
堀田はATMコーナーの防犯カメラ映像を繰り返し見ていた。
被害者の老女は一人で端末に向かっていた。
誰も傍に立っていない。
会話も視線の交差もない。
だが操作は異様に正確だった。
まるで隣に“目に見えない誰か”が立って指示していたように見える。
その異様さを堀田は言葉にできずにいた。
鑑識課の加納が報告書を手に現れた。
「操作履歴、通常の高齢者の入力速度に比べて、かなり速い。
ミスもゼロ。
しかし、この被害者は普段ATMを使い慣れていない。」
堀田は低く答えた。
「じゃあ、この“速度”と“正確さ”は何だ。」
加納は肩をすくめる。
「傍で何かを見せられていたのか、
あるいは……練習させられていた可能性。」
堀田はふと顔を上げた。
「練習?」
堀田は老女の自宅を訪れた。
古い民家の茶の間、卓上に“操作メモ”が残されていた。
ボールペンで大きく書かれた
「1.カードを入れる 2.暗証番号 3.振込選択……」
その横に小さく赤字があった。
「“声が聞こえる通りに”。」
堀田はページをめくった。
そこにもあった。
「“声が止まったら次に進む”。」
帰り道、堀田は橘沙耶に電話を入れた。
「橘、
この件……
“音声誘導型”の詐欺の可能性がある。」
橘が答える。
「被害者はイヤホンをしていたんですか。」
「いや、していなかった。
だがこの家には据え置きの“スマートスピーカー”があった。
被害者は“そこから指示が出ていた”と話し始めている。」
夜、堀田は資料室に戻った。
出し子の供述を思い出す。
「“お前は見てはいけない。考えなくていい。”」
指示役は“現場にいなかった”。
だが“声”だけが現場にいた。
堀田は壁際のK1に目をやった。
だがK1は何も言わなかった。
この事件は人間の“声”が支配する事件だ。
AIに任せるわけにはいかない。
「この“声”を探す。
必ず。」
第3章 金色の声
堀田はスマートスピーカーを手にしていた。
老女の部屋に据え置かれていたそれは、
埃ひとつなく、目立つ位置に置かれていた。
「家族が買った形跡もない。」
現場検証に立ち会っていた若手刑事の佐野が言った。
「通信記録はどうだ。」
「Wi-Fi経由でアクセスされた履歴はありますが、
どの端末がどのタイミングで接続したのか特定できません。
操作履歴は“消去済み”。」
堀田はスピーカーの側面に小さく貼られたラベルに目を凝らした。
製造元は国内大手だが、販売ルートに不自然な点があった。
購入者記録が存在しなかったのだ。
警視庁に戻った堀田は橘沙耶に告げた。
「この“スピーカー”はただの家電じゃない。
“指示役”がここにいた。」
橘は冷静に答える。
「つまり、通信機器として“中間地点”だったということですね。」
堀田は頷いた。
「通信を通じて“誰か”が被害者に指示していた。
そしてその“誰か”は、
“聞こえる声”だけを残し、
姿を現さなかった。」
深夜。
堀田は拘置所の“出し子”に再び面会した。
「お前に指示を出した相手の声はどうだった。」
男は少し考え、こう答えた。
「落ち着いてた。
なんていうか……金色の声、って感じだった。」
「金色?」
「はい。
女の声だけど、冷たくなくて、
どこか安心する調子だった。」
堀田は黙って手帳を閉じた。
「その声がこの“金物屋の老人”にも届いていたんだ。」
堀田の心にある可能性がよぎった。
この事件の“真の指示役”は、
もはや単なる人間の詐欺グループではないかもしれない。
“金色の声”――
それは現場にいない“声”だけの存在だった。
だが操作履歴は正確に残され、
振込も完了していた。
「声だけの犯人……。」
堀田は机に両肘を置き、額を押さえた。
夜明け前、K1が控えめに近づいた。
だが堀田は振り返らず、
一人で考え続けた。
「この声を追う。
必ず見つける。」
第4章 声の設計図
堀田は資料室に籠もり、老女宅のスマートスピーカーの型番、製造元、ネットワーク仕様を一つ一つ確認していた。
製造元は国内の有名メーカーだったが、この個体だけは妙だった。
通常なら製品番号から流通履歴がすぐに判明する。
だが、このスピーカーは正規販売ルートには載っていなかった。
「無記名販売?」
資料室の隅で橘沙耶が漏らす。
「いや、そうじゃない。」
堀田は指先で背面のシリアルナンバーを軽く叩いた。
「これ、削り直されてる。」
「削り直し……偽造品?」
「外見だけ正規品。
中身は“誰かが仕立てた通信機器”だ。」
橘は眉をひそめた。
「つまり、このスピーカー自体が犯人の“声を送り込むための道具”ということ?」
「そうだ。」
堀田は背筋を伸ばした。
「声だけで事件を操る“声の設計図”が、この機器に仕込まれてる。
被害者が“見ずに、疑わずに、正確に振り込む”よう誘導する仕掛け。」
橘は無言でスピーカーを見つめた。
その小さな筐体が、事件の核心に見えた。
夜遅く、堀田は出し子を取り調べた拘置所の録音を再生していた。
「俺は“あの声”を聞いてたんだ。」
「現場に誰もいないのに、耳元にだけ“金色の声”があった。」
録音の声の調子。
どこか酔ったような、しかし恐怖に裏打ちされた確信の響き。
堀田は気づいた。
「出し子も……指示されていた。
現金引き出しだけじゃない。
“お前も見なくていい、考えなくていい”と誘導されていた。」
翌朝。
堀田は鑑識課に足を運んだ。
課長の加納がスピーカーの内部を解体していた。
「珍しい改造品だ。
中に“中継装置”が追加されてる。」
「中継装置?」
加納は頷いた。
「無線LANの通信だけじゃなく、
別ルート――おそらく独自の通信規格で“どこかと”つながるように作られてる。」
「どこか……?」
「出荷元不明、通信記録も残らない。
追跡できない。
まるで“雲の中”に放り込まれてるようだ。」
堀田は眉をひそめた。
「声はどこから来た?」
加納は目を細めた。
「わからない。
だが、この設計は“相当な専門家”が作ったものだ。」
堀田は一人、喫茶店に入った。
薄暗い店内、窓際に座りコーヒーを注文。
頭の中を整理しようとしていた。
「出し子も声の支配下にあった。
被害者も声の支配下にあった。
では、この“声”の送り手は誰なのか。」
思考の末、堀田は一つの仮説に辿り着く。
「現場に“AI”の影はなかった。
だが“声”は存在した。」
AIではなく、“誰か”が
“声だけの存在”として現場に居続けていた。
橘から電話が入った。
「堀田さん。
スピーカーの購入履歴、変な記録が見つかりました。」
「何だ。」
「2カ月前、この老女宅の最寄りの家電量販店から“購入済み”として処理された履歴があります。
支払いは現金、店員によると“若い女”だったと。」
「若い女……。」
「記録の氏名は空欄。
レシートは出ていません。」
堀田は立ち上がった。
「この女が“声の送り手”か?」
「店員は顔を覚えていないと言ってます。」
「そりゃそうだろ。
“声を残す者”なら、自分の顔なんて絶対に残さない。」
堀田は思考を止めた。
直感が囁いていた。
「“声だけの犯人”は、
被害者を“声だけで”従わせ、
出し子も“声だけで”従わせ、
その“声”自体が事件の主犯だ。」
夜。
堀田はスマートスピーカーを前に座った。
スピーカーは電源を入れていないのに、わずかに“音”を発していた。
ごく小さな“ホワイトノイズ”。
雑音の中に微かな抑揚が混じっていた。
「お前が声の正体か……。」
堀田の中で、答えが形を成し始めていた。
真犯人は“どこかに”いる。
そしてこの声の背後に“人間”が隠れている。
第5章 声の影
堀田は家電量販店の監視カメラ映像を確認していた。
購入記録に記載はなく、支払いは現金。
店員の記憶も曖昧だったが、ただ一人、古株の女性販売員がぽつりと口を開いた。
「……そういえば、変わった感じの女性でした。」
「どんな?」
「すごく静かで、口数が少ないのに……何か不思議と“こちらの考えを読んでる”ような感じ。」
堀田は身を乗り出した。
「その女が店に入ってから出るまで、どれくらいの時間だった?」
「ほんの十分くらい。
でも妙に印象に残ったんです。
こちらが何も聞かなくても、欲しいものを全部“示してきた”。
口に出さずに。」
堀田は頷いた。
この女は“声を操る犯人”だ。
だがこの段階ではまだ“影”にすぎない。
警視庁資料室に戻ると、橘沙耶が立っていた。
机に広げられた複数の被害届。
そこには同様のケースが列を成していた。
「堀田さん、このスマートスピーカーは“ほかの被害者宅”にも置かれていたことがわかりました。」
「何件だ?」
「八件です。」
堀田は手帳を閉じた。
「全部“声の犯人”に仕立てられた。
指示役はいない。
声だけが支配した。」
夜。
堀田は現場に戻った。
件の老女宅。
押入れの中にあった古い電話帳。
その背表紙の隙間に一枚のカードが挟まっていた。
「AUDIOGUIDE」と刻まれた無記名カード。
堀田は橘に連絡を入れた。
「このカード……“犯人の痕跡”だ。
あの女が残した“わざとらしい手がかり”だ。」
橘は低く応じた。
「誘ってますね。」
「そうだ。
“見ろ”と言ってる。」
堀田は思い出していた。
拘置所で出し子が言ったこと。
「“お前は考えなくていい”
そう言われてた。」
被害者も。
出し子も。
そして警察までも、この“声”の背後に誘導されている。
「この犯人は……
“沈黙の犯人”だ。」
資料室で一人、堀田は机に頬杖をついた。
「声の犯人は“実在する”。
だが“姿を現さない”。
その女は、自分を“声そのもの”として振る舞っている。」
堀田の心は一つの事実に向かっていた。
「この“声の影”は……
元・警察関係者の仕業かもしれない。」
第6章 消された足跡
資料室。
堀田は「AUDIOGUIDE」のカードをじっと見つめていた。
無記名、発行元不明。
だがその厚紙の手触りに、既視感があった。
「この素材、通常の販促カードとは違う。」
質感は妙に良かった。
カードの隅に微細な刻印が見える。
「HMPD…?」
かすれた小さな文字。
堀田はその文字を頼りに調べた。
結果、浮かび上がったのは「Human Media Promotion Department」。
かつて警視庁に存在した広報・広聴課の内部組織だった。
橘が横に来た。
「HMPD……この部署、十年前に廃止されています。」
堀田は顔を上げる。
「俺も昔、その存在だけは聞いたことがある。
“音声メディア対策班”。
広報用の自動応答音声、啓発放送、犯罪抑止メッセージを“設計”していた部署だ。」
橘が表情を変えた。
「この女、警察の“音声設計”の出身者かもしれません。」
堀田は確信に近い直感を抱いた。
「だから“声だけで操作”できる。
老人を安心させ、出し子を従わせ、警察をも煙に巻く“声の設計図”。
それを作れるのは、“その筋”の人間だ。」
翌日。
堀田は警視庁人事課で古い名簿を見た。
「十年前、HMPDに所属していた女性職員。
年齢、当時20代後半。」
橘が指でなぞりながら一人の名前を読み上げた。
「“水原由紀子”。」
水原――
かつて板橋事件の責任者だった水原浩司。
その名字が胸に引っかかった。
「関係者か……?」
履歴を追うと、水原由紀子は退職後、所在不明だった。
退職理由「一身上の都合」。
その文字の裏に、何かが潜んでいることを堀田は感じた。
水原由紀子。
彼女の退職記録を辿ると、最後の人事書類に不審な箇所があった。
退職願に添付された離職証明書。
その「証明者」欄には水原浩司――
板橋事件の元捜査一課長の名があった。
「親族か……。」
夜。
堀田は水原浩司宅を訪ねた。
玄関先で老いた水原が現れた。
「刑事さん……来ると思ってた。」
「由紀子さんのことだ。」
水原は深い皺を寄せ、玄関脇の長椅子に腰を下ろした。
「……あの子は、私の娘だ。
幼いころから“声”に敏感だった。
小さな頃、あの子が泣くときは必ず“周りの空気”が変わる瞬間だった。」
堀田は座らず立ったまま聞いた。
「退職後、なぜ所在不明になった?」
水原は虚空を見つめた。
「あの子は自分が作った“音声誘導システム”を使い、
“人を操作する声”に耽溺していった。
最後に会ったとき、
あの子は“声だけで世界を変えられる”と言った。」
堀田は低く問うた。
「由紀子は今どこにいる。」
水原は目を閉じた。
「わからない。
十年、一度も連絡がない。
だが――刑事さん、
あの子は“どこかで声だけになっている”。」
堀田の胸に寒気が走った。
「この事件は……
水原由紀子が犯人だ。」
そして、由紀子は“声だけ”として、
現場にも、警察内部にも入り込んでいた可能性がある。
第7章 声が残る場所
堀田は、夜明け前の霞ヶ関を歩いていた。
資料室から持ち帰った水原由紀子の古いファイルを手に、静まり返った街の音に耳を澄ませる。
声はどこに残るのか。
人間の言葉は空気に消える。
だが、水原由紀子はその「消えるはずの声」をどこかに刻んだ。
彼女が警察を去る直前に携わっていた企画資料。
ファイルの一番奥に、堀田は目を止めた。
「遠隔音声誘導試験、プロトコル001」
そのプロジェクト名。
開発場所として「警察庁旧記録倉庫地下1階」と記されていた。
堀田はかつての警察庁記録倉庫へ向かった。
地下に伸びる長い階段。
手摺の冷たさ。
かつて見たこともない部屋にたどり着くと、扉の脇に古い看板があった。
「HMPD研究室」
鍵は朽ちていた。
押すと簡単に扉が開いた。
薄暗い部屋の中央に、1台の古びた録音装置が置かれていた。
その横に埃をかぶったモニター。
小さな付箋が貼られている。
「ここに“声”を残した。」
堀田は付箋を見つめた。
まるで由紀子が自分に読ませるために用意したような手書き文字だった。
録音装置のスイッチを入れた。
カチリという乾いた音。
そして――音声が再生された。
「こんにちは、刑事さん。」
それは柔らかく、しかしどこか冷たい響きの声。
堀田の背筋に電流が走った。
「あなたがここに来ることは、
私は予想していました。
あなたは“声だけで支配する犯人”の正体を求め、
ついにこの場所にたどり着きました。」
声は続けた。
「でも私は、あなたに見つけられる存在ではありません。
私は“声”そのもので生きています。」
堀田は録音を止めた。
この部屋に水原由紀子は「声」を残し、
自分の存在を“声だけ”に変えた。
橘沙耶が後ろに立っていた。
堀田は振り返らずに言った。
「彼女は……
自分自身を“声だけの存在”にした。
ここに“自分という人間”を消していった。」
橘は震えた声で答えた。
「物理的にはどこにいるか、
わからないということですか。」
堀田は頷いた。
「この“声”が現場を操り、
被害者と出し子を支配した。」
橘が低く言った。
「あなたも今、
彼女の“声”に導かれたわけですね。」
「そうだ。
俺はここに“呼ばれた”。」
堀田は録音装置を改めて覗き込んだ。
中には外部ネットワーク接続口が増設されていた。
「この機器を経由して、
彼女はどこか遠隔の場所から“声だけで”事件を操作していた。」
橘は震える手で付箋を取った。
「この筆跡……老女宅に残された“操作メモ”と同じです。」
「彼女は一貫して“声”と“筆跡”だけを残してきた。」
堀田は一歩引いて言った。
「つまり……
水原由紀子は“この部屋”に今も存在している。」
橘が首を振った。
「彼女の“肉体”はどこに?」
堀田はゆっくり答えた。
「まだ見つかっていない。
でも、“声”はここに残っている。
そしてその“声”は今も……
俺たちに指示を出している。」
第8章 声の座標
録音装置に触れながら堀田は考えていた。
「声が残る部屋」。
だが、どれだけ声が巧妙でも、送り手の“肉体”はどこかにあるはずだった。
橘が机上の回線記録を確認していた。
「これ、接続ログの一つに妙な記録があります。」
「どんな?」
「24時間以上同じIPアドレスとリンクしていた痕跡。
旧型の回線だけど……位置情報が取れるかもしれません。」
堀田は橘の指先が示す数字をメモに写した。
堀田と橘は東京都郊外、小さな公団住宅へ向かった。
古い建物。
隣室と間仕切りの薄い部屋。
そして、その一室から微かな音が聞こえた。
“あの声”だった。
堀田はドアノブに手をかける。
静かに開けると、埃をかぶった空の部屋。
カーテンの隙間から差し込む夕陽。
中央に、薄型モニターと古いスピーカー。
机の上に一つだけ置かれた写真立て。
そこには若き日の水原由紀子が写っていた。
制服のまま、穏やかな笑顔だった。
モニターが突然点いた。
“声”が再生された。
「ここまで来ると思っていました、堀田刑事。」
橘が息を飲む。
「ここが“発信元”……?」
「違う。」
堀田は声を低くした。
「この部屋も“演出”だ。
由紀子はここにいない。」
堀田は写真立ての裏を見た。
手書きのメモ。
「あなたは必ずここに来る。
ここまで辿り着ければ、もう私は必要ない。」
橘が震える声で言った。
「これ、まるで“声そのもの”が犯人だと言ってるようです。」
堀田は冷静に答えた。
「いや、由紀子は自分を“声”に変えたのではない。
“声がすべてだと思わせるための座標”を用意した。」
「じゃあ本当はどこに?」
「わからない。
だがヒントはこの“場所の選び方”にある。」
堀田は部屋を見回した。
古びた団地、昭和の間取り、かつての公団住宅。
すべて「旧警察住宅」だった。
「この“座標”は……
水原由紀子が“最後の伏線”として置いたものだ。」
その時、橘が気づいた。
「写真。
背後のカーテンの柄……見覚えあります。」
「どこだ?」
「本庁、資料館地下倉庫のカーテンと同じ。」
堀田の中で全てがつながった。
「由紀子は“この写真の中”にヒントを残したんだ。」
「つまり……彼女はまだ本庁内にいる?」
堀田は写真を手にした。
「この“写真の背景”。
ここが“真の座標”だ。」
堀田は写真を見つめた。
水原由紀子の微笑み。
その背後に映る古びたカーテン。
部屋の隅に置かれた白い金庫。
「次に行くべき場所がわかった。」
第9章 真犯人の部屋
堀田と橘は警視庁資料館地下へ向かった。
この場所はすでに“忘れられた空間”だった。
埃をかぶった資料棚、破れたカーテン、薄暗い照明。
だが、堀田の目にはこの部屋の細部が鮮やかに見えた。
「ここだ。」
堀田は写真に映っていた窓際のカーテンに手をかけた。
同じ柄。
同じ色褪せ。
そして、窓際の床下には古びた金庫があった。
写真とまったく同じ位置に置かれている。
橘が問いかける。
「ここに……?」
堀田は静かに金庫のダイヤルに手をかけた。
埃を指でぬぐうと、脇に小さな刻印があった。
「HMPD 64-001」
64――
この数字に堀田は心臓が打つのを感じた。
64事件、そして水原浩司。
数字は二人を結んでいた。
ダイヤルを回すと、カチリと音を立てて金庫が開いた。
中にはノートPC一台。
接続ケーブルが奥の壁に続いている。
堀田はそのケーブルがどこに繋がっているか見て戦慄した。
「ここだ。」
PCは警視庁内部ネットワークに直結されていた。
つまり、この場所こそ“声の発信基地”だった。
橘が画面を立ち上げると、
そこには起動画面とともに“メッセージ”が浮かび上がった。
「あなたがたどり着けるか、見たかった。」
水原由紀子の文字。
堀田は口を開いた。
「これが……彼女の“部屋”だった。」
「肉体はどこに?」
橘の問いに堀田は短く答えた。
「わからない。
だが、彼女はここに“声だけ”を残した。
自分をここに置き去りにすることで、
警察をも欺いた。」
堀田はPCのUSBポートに録音装置を接続した。
再生ボタンを押す。
「刑事さん。」
由紀子の声が響いた。
あの日拘置所で聞いた“金色の声”。
冷たさも、柔らかさもある不思議な響き。
「私はここにいます。
でも、私を見つけても、あなたの“事件”は終わらない。
なぜなら私は最初から“声だけで存在する”ことを選んだから。」
声が止まる。
堀田は静かに椅子に腰を下ろした。
「見つけた。
だが……これは“発見”ではない。
ただ、“声の終わり”を確認しただけだ。」
橘は椅子に背を預けた。
「これで終わりますか?」
堀田は首を振った。
「終わらない。
声は消えたが、
“声によって支配された人々”は今も残っている。」
堀田はPCを閉じた。
「この事件は終わらせるんじゃない。
“ここに残しておく”。
そして、俺が“引き受ける”。」
橘が微かに頷いた。
「堀田さんらしい結末ですね。」
第10章 引き受ける者たち
PCを封じたあとも、堀田は地下室に残っていた。
橘が言った。
「これで“声”は消えましたね。」
「いや……橘。」
堀田はゆっくり顔を上げた。
「本当に“消えた”と言えるのか。」
橘が首を傾げる。
「PCは遮断し、通信も止めた。
金庫に残された物証も押収済みです。」
堀田は短く笑った。
「だが“声は消えていない”。」
橘が言葉を失う。
堀田は手帳を取り出した。
そこにあったのは、老女宅から押収された“操作メモ”。
その筆跡。
そして……
最近、警視庁内部で見つかった“内部記録票”のメモ。
その筆跡が、同じだった。
「橘。
お前が残した手書き記録。
これと同じ筆跡だ。」
橘が青ざめた。
「どういう……。」
堀田は立ち上がった。
「お前は“彼女の声”を聞いていたんだな。
そして、お前自身が“水原由紀子の計画を継いだ”。」
橘は沈黙した。
肩がかすかに震えている。
「水原は自分を“声”に変えた。
お前は“その声を聞いた人間”だった。
声は、肉体を離れても“次の人間”に引き継がれた。」
堀田は一歩近づいた。
「橘沙耶。
この事件の“真犯人”は……
水原由紀子だけじゃない。」
橘はついに口を開いた。
「私は……
一度だけ水原由紀子に会いました。
退職する直前。
彼女に言われたんです。
“橘さん、
あなたなら“声の正義”を理解できる。”」
涙がこぼれた。
「私は……
水原さんの声を忘れられなかった。」
堀田は息をついた。
「声は消えない。
人が“それを引き受ける”限り。」
橘はうつむいた。
「だから私は……
ここに“声を置いた”。」
堀田はゆっくりと橘の肩に手を置いた。
「それでもお前は……
ここで“声を止めた”。
俺の前に立って、
声の正体を引き渡した。」
橘は小さく頷いた。
「私もこれを引き受けます。」
堀田は金庫を見つめた。
「引き受けること。
それだけが、人間ができる唯一の“決着”だ。」
その夜、地下室に灯りが消えた。
“声の部屋”は静けさを取り戻した。
だが堀田の胸には重さが残った。
声はどこにでも生まれる。
声は消えたように見えて、人の心に潜む。
「明日もまた誰かが“声”を聞くだろう。
だが俺は、それを見つける刑事であり続ける。」
堀田は夜の街に歩き出した。
彼の背中は、
誰よりも静かだった。
あとがき
本作では「AI刑事シリーズ」でありながら、
AIを最小限に抑え、人間の迷いと曖昧さ、
そして沈黙の持つ重みを徹底的に描きました。
「声」は見えない。
だが、その「声」に人間は支配される。
それを止めるには、「声」を聞き分け、自分の責任として引き受けるしかない。
堀田刑事が最後に見せた「静けさ」は、
現代を生きる私たち一人ひとりに必要な“覚悟”の象徴かもしれません。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
コメント