まえがき
行政は、正しさのかたまりであるべきだ。
AIは、間違いを犯さない存在であるべきだ。
それは誰の願いだろうか?
この物語は、そんな「正しさ」からこぼれ落ちた声なき人々と、彼らを見つけようとする者たちの記録です。
全く新しい“今”のAI社会を描こうと挑んだ、完全オリジナルの刑事群像劇です。
登場人物は全員、生きています。
社会の中で、生きて、迷って、選びながら、それでも声をあげる人たちの物語です。
登場人物一覧
片瀬 奏真(かたせ そうま)
AI刑事。AIシステムと人間の捜査の共存を模索し続ける。冷静沈着だが、内には強い信念を抱く。
蓮見 優子(はすみ ゆうこ)
社会部記者。弱者の視点で取材し続ける女性記者。理央の手帳と出会い、心を動かされる。
原田(はらだ)
奏真の上司にあたるベテラン刑事。制度やAIに不信感を持ちつつも、現場を守ろうと奔走。
仁科 誠一(にしな せいいち)
行政AI「ナナ」の開発責任者。AIの進化と“倫理”のジレンマに苦しむ技術者。
瀬川 理央(せがわ りお)
行政記録からこぼれた支援対象者。日記に小さな願いを綴っていた。
目次
第1章「申請されなかった助け」
東京・板橋区。雨が降り続いた三日目の午後。区役所の地下記録保管室に片瀬奏真(かたせ・そうま)はいた。
元・生活保護担当の窓口職員で、いまは警視庁AI刑事課へ出向している。行政の“数字だけの判断”に違和感を覚え、異動願を出した変わり者だ。
「これ……実際の支給記録と合わない」
奏真は、区の生活支援AI“ナナ”が自動出力した給付履歴と、実際の振込記録を照らし合わせていた。
“申請履歴なし”“本人確認なし”——
にもかかわらず、生活扶助が継続的に振り込まれているデータがある。
「この名前……“瀬川理央”?支給対象者になっていない。なのに、毎月4万2千円が振り込まれてる」
AIは、基本的に“虚偽”を見抜く精度が高いはずだった。だがこの記録には、嘘も改ざんもない。むしろ、“なかったこと”にされているような静けさがあった。
奏真はふと、かつての同僚だった原田剛志の顔を思い浮かべた。
——生活保護詐欺の摘発で名を上げた、警視庁の元刑事。
彼もまた、ある申請者の“過剰申告”を「不正」と断じ、受給を打ち切らせた。だがその後、その申請者は孤立した。
原田は退職し、いまは民間のAI福祉支援会社でコンサルをしているという。
奏真はその“記録されなかった孤独”が、AIの審査をすり抜けていたのではないかと考え始める。
記者の蓮見優子に連絡をとった。
「また“支給ログ”が怪しい。今回は詐欺じゃない。むしろ逆だ。記録にすら残されなかった人間がいる」
優子の声が低く響く。
「記録に残らない困窮……それが、今の制度で一番見えづらい部分よ」
「ナナはどう答えるか——いや、そもそも、質問に答える権利すら持ってるのか」
彼はそう呟いた。AIはただの道具か、それとも新たな“行政の意志”か。
そうして、記録されなかった助けをめぐる捜査が、静かに始まった。
第2章「受給記録の消えた家族」
優子は、厚生労働省が公開する「受給者統計」データベースを調べていた。
「この“理央”という名前、以前もどこかで聞いた……」
数年前、板橋区の児童福祉施設で“保護者不明のまま預けられた子供”として扱われていた記録があった。名前は“瀬川理央”、年齢は当時8歳。
現在の記録では、児童相談所にその名前は存在しない。
優子は顔認証AIに過去の施設記録を投入し、現在の福祉給付データと照合した。そこに出てきたのは——
「……一致した。現在の“理央”は、住民票が削除された状態で生活してる」
つまり、行政上“存在していない”が、支給は続いているということ。
奏真は驚愕する。
「ナナは“存在しない人間”にも支給するよう設計されていたのか……いや、そんなはずは」
原田に連絡を取った。
「原田さん、“ナナ”って、受給対象の優先度をどう判断してるんですか?」
原田の声が電話越しに重く響いた。
「人間の審査モデルをもとにしてる。だが、“例外”には弱い」
「……つまり、“記録からこぼれた人”は?」
「切り捨てられるか、誤って支給される。どちらかだ」
優子がノートPCを指差す。
「見て、この施設。理央がいた頃、児童記録の更新が途中で止まってる」
奏真は確信した。この事件は、データだけでは追えない。
「会いに行く。理央に」
受給記録の裏に隠れた、“生きている人間”の存在。
それが、記録される未来を持つかどうか。
——それは、まだ誰にも分からなかった。
第3章「AI審査の“境界線”」
奏真は、区の生活支援センターに足を運んだ。
理央の住所に登録されていたアパートは、今では空き家になっていた。だが、隣の住人の話で、2週間前まで理央が確かに暮らしていたことが分かった。
「でも、突然いなくなって。それ以来、郵便受けも空っぽで……」
ナナのログを再解析する。すると、特定日の給付に関して“人為的に上書きされた痕跡”が残されていた。
「AIの審査に、人が手を加えた?」
優子が即座に反応する。
「それって、改ざんよ。AIを盾にして、都合のいい支給を隠してる」
原田が合流し、端末を覗き込んだ。
「これは“優先審査フラグ”……本来は緊急避難的な措置に使う。でも、理央のような無登録者に適用するのはおかしい」
3人は顔を見合わせた。
“制度の外”に置かれた者が、“制度の中”のリソースで生き延びていた。
それは、AIが正しく支給した“例外”か、それとも人間による“操作”か。
「……どこまでがAIの判断で、どこからが人の手か。その境界を明らかにしなきゃ、真実には辿り着けない」
境界線の向こうには、記録も説明責任も存在しない。
その線を越えようとしている者の“意志”が、調査の焦点になり始めていた。
第4章「境界を越えた者たち」
理央の手がかりを求め、奏真は福祉支援団体「結(ゆい)」を訪れた。
そこは、公的制度では救えない人々を、民間の力で支援する非営利団体だった。
対応に出たのは、女性職員の杉山智子(すぎやま・ともこ)。
「理央ちゃん? 確かに数か月前まで、ここの相談に来てました」
だが、ある日突然、来なくなったという。
「最後に残したメモには、『ナナに頼ったら、もう戻れない』って」
智子は言った。
「彼女は制度の“外”にいる自覚があった。だから、制度に触れるたびに、消されていくような感覚を持っていたんじゃないかと」
優子は記者仲間のネットワークを使って、理央がネット上に残した匿名の書き込みを追った。
『なかったことにされるのが、一番こわい』
『優しさがデータになって、見えなくなった』
その言葉に、優子もまた胸を締めつけられる。
一方、原田は“ナナ”の開発元企業に情報開示を申し入れたが、機密保持契約を理由に拒否された。
「こうなると思った。あのAIは、“人を救う道具”じゃない。“基準”を装った抑圧なんだ」
奏真は改めて思う。
——記録に残らなければ、存在しない。
だが、本当に人間の価値は、記録されることで決まるのか?
そう自問しながら、彼は理央が最後に姿を見せたという商店街へ向かった。
雨が止みかけた夕暮れのなか、静かな捜査が続いていた。
(第5章につづく)
第5章「なかったことにされる日常」
片瀬奏真は、商店街の防犯カメラ記録を精査していた。
理央の姿が映ったのは、三週間前。手には小さなスーパーのレジ袋を持ち、足取りは穏やかだった。
「普通に暮らしていた……“いないこと”にされた存在が」
優子が区の“ナナ”管理室に取材申し込みをしたが、担当職員の反応は鈍かった。
「AIの判断過程はログで記録されますが、詳細な学習データは社外秘でして……」
「なら、ナナが誰を優先し、誰を“排除”してるかは誰にもわからない?」
職員は黙った。
その夜、奏真の元に一通の封書が届いた。
差出人不明。中には、理央が暮らしていた部屋の鍵と、小さなメモが添えられていた。
『記録に残らないものが、いちばん壊れやすい』
翌日、奏真はその鍵を手に、再びあのアパートを訪れた。
薄暗い部屋の中、家具は整然と並んでいた。だが、生活感が乏しかった。
唯一、壁に貼られた紙が目を引いた。
『毎日、おはようって言ってくれる人が欲しい』
それは、記録にもデータにも残らない、ただの願い。
奏真は、その瞬間に思った。
——AIは、審査できない。 ——“孤独”というものの価値を。
彼はナナの設計者に面会を求める準備を始めた。
原田も動いた。かつて自らが切り捨てた“過剰申告”の受給者に手紙を出していた。
「今なら、あなたの声を聞けるかもしれない」
そして優子は、記事の準備を始めた。
タイトルは「なかったことにされる人々」。
SNSでは、似た境遇の人々が次々にハッシュタグをつけて投稿を始めていた。
#記録から消された声 #ナナに見えないわたし
制度の隙間で生きていた声が、ようやく“記録される側”へと動き始めていた。
(第6章につづく)
第6章「声のない声を拾う者たち」
記者・蓮見優子の書いた記事「なかったことにされる人々」は、掲載からわずか3日でSNS上に20万回以上シェアされた。
#記録から消された声 #ナナに見えないわたし
ハッシュタグは日々拡散され、行政AIの審査や福祉制度に対する無言の批判となっていた。
厚労省は記者会見を開き、「AI審査の透明性確保に向けた検討委員会」を設置すると発表したが、内容は曖昧だった。
片瀬奏真は、ついに“ナナ”の開発責任者・仁科誠一(にしな・せいいち)と面会する機会を得た。
会議室に入ると、仁科は静かに語りだした。
「AIは正確です。だが、人が期待する“公平”とは、別のものを提供する」
「じゃあ、瀬川理央に起きたことも“正確”な結果なんですか?」
仁科は黙った。
「私は、制度の外に置かれた人を救うためのAIを作ったつもりだった。だが、現場の運用で“誤審”が繰り返された」
彼は、理央のログを奏真に見せた。審査過程の中に、無数の「注釈」と「例外」が並んでいた。
「これは……人間の手で、“ナナ”の判断が都度修正されてる?」
仁科はうなずいた。
「制度がAIを使う時、AIが制度を写しとる。弱者に不利な制度をそのまま強化してしまうんだ」
その頃、原田は区役所の内部告発者と接触していた。
告発者は言った。
「上層部は知っていた。理央のような“グレーゾーン”の存在は、どの自治体にも複数いたと」
「じゃあ……誰も、止めようとしなかった?」
「制度に従った、という理由で」
声なき声が、制度の中で潰されていた。
優子は記事の続報を準備していた。
『“記録される側”に立つために』
タイトルには、理央の手書きメモが使われた。
『毎日、おはようって言ってくれる人が欲しい』
記録にも、予算にも残らない願い。だが、それこそが人を人として扱う原点だった。
その想いを拾う者たちが、いま動き始めていた。
(第7章につづく)
第7章「自治体という名の無責任」
厚生労働省の検討委員会が発足して2週間。だが、奏真たちは早くも“限界”を感じ始めていた。
「検討委員って言っても、元官僚と学者だけ。現場を知らない人たちが制度を“再確認”してるだけよ」
優子は、委員会の公開議事録を睨みながらため息をついた。
原田が言った。
「それでいて、“ナナ”の開発ベンダーとは協議しない。開発者を排除したまま、結論なんて出るわけがない」
仁科もまた苛立っていた。
「AIは制度を映す鏡だ。だが、鏡の曇りを直さないまま“映る像”だけ議論しても意味はない」
その頃、SNS上で“消された支給”に関する情報提供が次々と集まっていた。
“私の父も記録にないまま支給が止まりました” “理由の説明もなく、審査に落ちたまま放置されています”
ハッシュタグ #AI支給拒否 が拡散される中、地方のある市役所職員から匿名の連絡が届いた。
《制度的には違法ではありません。ただ、審査補助AIの判断を覆すと、現場職員が処分対象になるケースがあるのです》
「つまり、“ナナ”の判断が絶対で、現場は誰も逆らえない……」
「無責任の連鎖だわ。自治体も、厚労省も、AIのせいにして“判断しない”ことを選んでる」
奏真は、板橋区役所に正式な開示請求を行った。だが返ってきたのは——
『該当データは存在しません』
優子が呟く。
「存在していないのは、データじゃなく、“人の意思”よ」
原田が口を開いた。
「このままじゃ、制度そのものが“正しさの演出装置”になる」
その夜、理央の部屋にあった古い手帳が届いた。
送り主は不明。中には、彼女が日々記した生活の記録。
『今日はカップラーメン。誰かと一緒に食べたいな』
その文字は、AIが判定できない“感情の証拠”だった。
行政の記録には何一つ残されない日常。だが、そこには確かに人が生きていた。
(第8章につづく)
第8章「記録されなかった日記」
手帳の記録は、3ヶ月分に渡って綴られていた。
『今日は、役所から手紙が届いた。読むのが怖くて、まだ開けていない』
『公園で猫を見た。誰かに似ていた。話しかけそうになったけど、やめた』
『“おかえり”って言ってくれる家があったらいいのに』
片瀬奏真は、その一文一文を手で写しながら、ノートに貼っていった。
「これは……“見えない支援”の証拠だ。制度にも、審査にも、数字にも映らない。でも、この記録があったから、理央はここまで生きてこられた」
優子はその日記をもとに新たな連載記事をスタートさせた。
『記録されなかった日記:誰かになることもなく、生き続けた証』
SNSでは、読者の共感が広がった。
“これ、私の話かと思った” “データにはならない気持ちが、ここにある”
原田は、元同僚の刑事に頼み、生活支援AIナナの稼働記録を非公式に調べ始めていた。
「ナナは理央を“保留”にしたあと、内部で“学習除外フラグ”を立てていた。つまり、彼女の存在を“例外”としてAIから消した」
「制度の中で、誰かが判断した?」
「いや、判断“しなかった”結果として、そうなった可能性が高い」
仁科はナナの設計仕様を確認しながら言った。
「ナナは、人間が判断を先送りにしたデータに、“無効”のタグを付ける。これは……人間が、責任を放棄した痕跡だ」
理央の日記の最終ページには、こう書かれていた。
『おやすみ。また明日、私が私でいられますように』
その願いを、誰が記録するのか。
そして誰が、記録からこぼれた願いに耳を傾けるのか。
奏真は、彼女の部屋の灯りをそっと消した。
——声なき日記が、ようやく声になろうとしていた。
(第9章につづく)
第9章「制度の隙間に咲くもの」
春の光が差し込む中、片瀬奏真は理央の部屋に咲いた小さな観葉植物を手に取った。
「水は……ちゃんとあげられていたんだな」
それは、どんな記録にも残されない、彼女の“日常”の一部だった。
優子は記事の最終稿を仕上げていた。
『制度の外で咲いた一輪の緑。それを“支給対象外”と呼べるのか』
原田は、ナナの稼働制限をかける提言を自治体へ提出した。
「最終判断をAIが行う体制を、今後すべての自治体で見直すこと」
その提言は全国に広がり、いくつかの自治体では“AI審査の中断”が実現された。
仁科もまた、自身の開発したAIに対して「人間の再介入」を促すコード改訂に取り組んでいた。
「人が関わらなければ、AIは“社会”を写せない。これは、ただの機械だ」
そして奏真は、区役所の福祉窓口に張り出された一枚のポスターを見上げた。
《あなたの声が、わたしたちの記録になります》
理央が遺した日記の言葉が、そのキャッチコピーに生かされていた。
物語は終わらない。
記録されることのなかった小さな願い、目に見えない感情、誰かに届かなかった声——
それを見つけ、拾い、記録しようとする人がいる限り、この社会には希望がある。
——制度の隙間に咲いた、たった一つの証明。
(完)
あとがき
「この人に支給する根拠が見つかりません」
「制度外なので、支援はできません」
AIによってこう言われる時代に、人は“生きている”と証明できるのか。
作中の行政AI「ナナ」は、現実社会の制度と技術の境界を映すための装置でした。
しかし、物語を紡ぐ中で見えてきたのは、AIの限界ではなく、人間の「無責任の構造」でした。
私たちは記録によって誰かを判断します。
だからこそ、“記録されない声”をどう受け止めるかが問われているのだと、今あらためて思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
彼らの声が、あなたの中に少しでも響いたのなら、それが最大の報酬です。
——サイコ
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