まえがき
記録とは、ただのデータではない。
それは誰かの“声”であり、“想い”であり、“選択”の軌跡だ。
本作『祠の証明』は、過去の記録をめぐって動き出すAI刑事K1と人間たちの物語。
舞台は、消された地図に載らない町。
“記録”を追う先にあったのは、失われた町の声と、それを未来に残そうとした静かな意志だった。
死者のないミステリーを通して、過去と向き合う勇気、そして未来に引き継ぐ優しさを描きたいと思いました。
ページをめくるたびに、あなたの中にも何かが残りますように。
登場人物
K1(ケーワン)
最新型AI刑事。論理的で冷静ながらも、人間の感情に関心を抱き始めている。
堀田慎一(ほった しんいち)
ベテラン刑事。現場一筋、勘と経験で動くタイプ。K1とは良き相棒関係。
伊吹遥(いぶき はるか)
社会部記者。真実を追い続ける芯の強さを持ち、かつての町の記憶に強い関心を持つ。
笹川航平(ささがわ こうへい)
元・町の記録係。物語の鍵を握る人物で、祠に遺された“記録”の継承者。
大原市長(おおはら しちょう)
消された町に関わっていた行政側の人間。記録抹消の背後にいたが、真相を語る勇気を持つ。
目次
第1章「逃げなかった理由」
東京・中央区の交差点にそびえ立つ彫刻《翼》の下で、青年が膝をついていた。早朝の光の中、通勤客たちが足を止め、スマートフォンを構える。その青年は、ただ静かに顔を伏せ、何かを待つように動かなかった。
通報を受けて現場に到着したのは、堀田刑事とAI刑事K1だった。K1は最新型の感情解析ユニットを搭載しており、現場で人の表情・仕草・呼吸・声色から感情データを即座にプロットする。
「この男……何かを『伝えよう』としてここにいたようです」
K1の冷静な声が響いた。
男の名は沢木純平(さわき じゅんぺい)、26歳。凶器もなく、争った形跡もない。だが、手にはメモが握られていた。そこには走り書きでこう記されていた。
── “僕は逃げない。あの場所に届いてほしい” ──
病院に搬送された沢木は、昏睡状態にあった。
堀田はメモを読みながら呟いた。 「逃げない?誰かのためか、それとも……」
伊吹遥(いぶき はるか)記者は、その場で警察に許可を得て現場に取材に来ていた。彼女は都市伝説のように語られる《翼》の彫刻について独自の調査を続けていた人物だった。
「この場所、数年前にも同じようなことがあったんです」
伊吹が見せた資料には、2014年に同じ彫刻の下で“泣き崩れた女性”の記録が載っていた。表情認識AIによる分析では、極端な悲しみと微笑みが同時に検出されていた。
《翼》── それは人が記憶を投影し、感情の残響を刻みつける場なのかもしれなかった。
K1は彫刻の表面をスキャンしながら言った。
「この構造物には、過去数年間で集中的に『高密度の感情残渣』が蓄積されています」
感情残渣(エモーショナル・レジドゥ)は、近年のAI研究で解明された、強い感情が物質表面に一時的に記録される現象だった。
堀田と伊吹は、沢木の過去を洗い直す。
── 彼には10年前に行方不明になった妹がいた。
名前は沢木由衣(ゆい)。当時中学2年。 記録によれば、兄妹は《翼》の前で最後に一緒にいた。
「彼は何を思って、またここへ来たのか」
伊吹は、由衣が残した“詩の断片”を発見する。それは兄に宛てたものであり、同時に“何かを守るための決意”でもあった。
夜。堀田とK1は、沢木のアパートを訪れる。
そこには一冊のスクラップブックがあった。 ページをめくるたびに現れる、妹との記憶。彼女の書いた詩。彫刻のスケッチ。そして最後のページにだけ、奇妙な地図が挟まれていた。
地図にはタイトルがあった。
──《翼の下にあるもの》
K1の目が淡く光る。
「これは“記録の地図”です。過去を、心で歩いた軌跡」
その瞬間、堀田の記憶にも微かに蘇る、ある少女の姿。
彼らはまだ、事件にさえなっていない“何か”を追っていた。
だが、その何かは、過去と現在、そして記録と心をつなぐ“道標”になる予感がしていた。
第2章「沈黙の詩人」
沢木純平の意識は、依然として戻らなかった。 医師によれば、脳への直接的な損傷は見られないものの、深い精神的ショックにより自発的な覚醒が阻害されているという。
伊吹遥は、病室のガラス越しにその顔を見つめていた。 その手には、沢木の部屋で見つけた詩の断片が握られている。
──《とおく、きえたことばを、ひとつひとつ、あつめるために》
由衣が書いたとされるその詩は、まるで“記憶の採集者”のような視点だった。
堀田とK1は、詩に描かれたイメージと、沢木が残した地図の照合を進めていた。 K1の演算によれば、詩中に頻出する「水」「階段」「凪」の語彙が、中央区の旧河川跡地と一致する可能性が高い。
「水が凪ぐ場所……地下かもしれんな」 堀田が地図を見ながら呟く。
彼らが向かったのは、地下鉄銀座線の旧工事区域。 かつての水路が都市計画の一環として埋められ、今は点検通路としてしか使われていない場所だった。
暗がりの中を進むと、コンクリート壁にスプレーで描かれた《翼》の形が見えた。
伊吹がライトで照らすと、そこには幼い筆跡のような詩が刻まれていた。
──《とまらないなら、ここでまってる。おぼえているなら、またあえる》
K1が言う。 「これは記録媒体ではありません。手で書かれた“感情の言語”です」
この場所は、沢木兄妹がよく遊んでいた“秘密の場所”だったのかもしれない。 伊吹が懐中ノートを取り出し、詩を写し取っていく。
その時、通信が入った。
《中央署から。彫刻《翼》の表面に、今朝新たな“熱反応”が観測された》
「誰かが、あの場所で“何か”を思ったってことか」 堀田が返す。
三人は再び、彫刻のある交差点へと向かう。
朝日が差し込む中、《翼》の下には、白いリュックを背負った中学生くらいの少女が立っていた。
少女の姿を見たK1のセンサーが微細に振動する。
「……この子、以前の記録に一致します」
伊吹が息を飲む。
「由衣……なの?」
少女は、微かに笑みを浮かべ、そして背を向けた。
彼らがその後を追うと、少女は一つの建物の影に姿を消した。
そこは、旧区役所の図書館跡地。 封鎖されて久しく、今は記録保管庫の一部としてのみ使われている場所だった。
K1の目が強く光る。
「この建物には、“記憶の封印庫”が存在します」
それは、行政のAIが保有していた“記録不能領域”── 人が自ら記録し、しかし忘れていくことでしか成立しない“記憶の空白”だった。
伊吹がポツリと呟く。
「人が記録しないと、AIには探せない。……でも、K1、君はそれを“感情”で拾えるんだね」
少女の影を追いながら、彼らはさらに“過去の記憶”へと歩を進めていく。
第3章「途切れた地図」
中央区旧図書館の記録保管室。 伊吹、堀田、K1の3人は、職員の立ち会いのもと、封鎖された地下倉庫に足を踏み入れた。
「このあたり……湿気がひどいな」 堀田が壁のカビを指さす。
K1は無音で歩きながら、赤外線スキャナーと空間波長解析センサーを起動させる。
《この部屋の記録濃度は、中央区で最も高い領域に属します。特に“未整理の個人記録”の残存が顕著です》
伊吹は慎重に一つの箱を開けた。 中には、古い小学生向けのノートや文集、時折挟まれたスケッチブック。
その一冊の表紙に、震える文字でこう記されていた。
──『わたしの ちず』──
「これ……由衣のものかも」
伊吹は中をめくった。 そこには、子どもの手による簡素な町の地図と、それぞれの場所に対応する“思い出”が描かれていた。
《ブランコのあるこうえん → おにいちゃんが かぜでねてたから、ひとりであそんだ》 《スーパーのちかく → ひとがたくさんいて、こわかった》
K1が静かに言う。
《この記録には、時間軸がありません。ですが、ページごとに“感情反応”が異常に集中しています》
堀田が呟く。 「これは、“感情の地図”ってやつか……」
ページをめくっていくうちに、一つの“欠損”があることに気づいた。
地図の中に、“濃い黒で塗りつぶされた区域”がある。
何も書かれていない。 その上には、ただ一言だけ。
──『ここは わすれる』──
伊吹の胸に、強いひっかかりが残った。
K1は演算を進めていた。
《この地図の全体構成は、行政データと一致しません。しかし“配置”は、かつて存在した空き地の分布と似ています》
堀田が地図をコピーし、地理情報と照合しながら言った。
「この場所……今は高層ビル群の一角になってる。再開発で地図ごと消されたんだ」
伊吹がふと、詩の記憶を呼び起こす。
──《おぼえているなら、またあえる》──
その“黒く塗りつぶされた区域”に、何があったのか。 なぜ、記憶ごと封じ込められたのか。
その問いの先に、“この事件の核心”があるように思えた。
K1が言った。
《人は、記憶を消すことで前に進むことがあります。しかし、“消された理由”まで消えてしまうと、それはただの“欠落”になります》
伊吹は頷いた。
「だから、私たちは“思い出す”んだよ。たとえ誰にも頼まれてなくてもね」
三人は、黒く塗りつぶされた地図の場所──再開発エリアの“空白”へと、足を進める。
その先にあるのは、失われた町の記憶と、過去を封じた誰かの意志。
第4章「灰の中の花」
旧町の記憶が封じられたまま、高層ビルが並ぶ再開発区域。 伊吹、堀田、K1の3人は、その中心に建つ商業複合ビルの地下へ向かっていた。
「この辺りが“黒く塗りつぶされた場所”と重なる区域です」 伊吹が、地図を見ながら静かに言う。
エレベーターを降り、地下フロアの端にたどり着くと、K1が停止した。
《この一帯、空間データが奇妙に圧縮されています。かつて別の建築物が存在した形跡》
堀田が、ふと天井を見上げる。 「匂いが違うな……ここだけ、古い木材の匂いが残ってる」
三人が足を踏み入れた先には、改装されずに残された小さなホールのような空間。 壁面の一部には、炭のような黒い跡。
K1が近づき、残留物を解析する。
《炭化物質。合成木材の燃焼痕。焼失建築の一部を“記念保存”として残した可能性があります》
伊吹が壁に目を留めた。 焦げ跡の中に、うっすらと見える何かの輪郭。
「これは……桜の花?」
そこには、小さな手で描かれた“桜の花”の絵が、煤にまみれながらも残っていた。
「子どもが描いたんだね」
堀田が懐から古びた小冊子を取り出した。
「さっき見つけた、地域文集の写しだ。ここに“旧花祭り会館”って記述がある」
“花祭り”──それは、かつてこの町で春を迎える行事として行われていた伝統行事。
K1がAI記録網から過去の画像データを復元した。
《花祭りの記録──桜の紙花で飾られた会館、子どもたちの舞台、地域住民の笑顔──》
だが、その記録の最後には、会館火災の簡素な報告が添えられていた。 “原因不明の出火により、会館は全焼”
伊吹が呟いた。 「記憶ごと、燃やされた……でも、誰かがこうして花を残してくれた」
その時、K1がビル内の微弱な信号を感知した。
《未登録の個人記録端末から微弱な通信反応あり。地下フロア北端にて検出》
三人は、物置のような部屋にたどり着く。 そこには、清掃員のユニフォームを着た高齢女性が座っていた。
彼女は、ゆっくりと語り始めた。 「昔、この町に、詩があったの。子どもたちの言葉を集めた、小さな声の祭り……」
彼女の話に、伊吹は記憶を重ねる。 「その詩が、あの“沈黙の詩人”のもと?」
女性は頷いた。
「みんな、あの火事で声を失った。でもね……あの子だけは、声を録ってた。何もかもなくなった夜、録音機だけが残ってたの」
K1が記録装置を差し出すと、彼女は躊躇いながらそれを受け取った。
そこに保存されていたのは、祭りの夜の声── 笑い声、詩の朗読、拍手、そして“ありがとう”という小さな声。
その瞬間、三人は確信した。
記憶は、消されても“響き”として残る。
堀田が静かに言った。 「この花は、燃えても枯れてない」
伊吹は、壁の花をそっと指でなぞった。
「この記録も、私たちが未来に咲かせる」
第5章「渡せなかった言葉」
記録再生装置から流れる“ありがとう”の声は、地下の小部屋にしばしの静寂をもたらしていた。
その音声を聞き終えたK1が呟く。 《この音声には、標準的な発声とは異なる構音特性が含まれています。話者は、おそらく口腔形成に何らかの制限があったと推定》
堀田が目を細めた。 「つまり……障がいを持つ子だったのか」
伊吹は思い出す。 地域文集の中に、ひときわ短い詩があった。
──『みんなと おなじ こえじゃないけど うれしかった』──
「この子が、“ありがとう”と言ってくれたのかもしれない」
彼女はその詩のページを、そっと胸元にしまった。
翌日。 伊吹と堀田、K1は旧町の一角にある市立図書館を訪れた。 そこに、焼失した“花祭り会館”に関する新聞記事のアーカイブがあると聞いたのだ。
古いマイクロフィルムを再生する。 記事の一面には、子どもたちが舞台に立つ様子と、“詩のリレー”という見出し。
そこに、明確に“由美”という名があった。
《詩の最後を締めくくったのは、小学2年生の伊達由美さん。口の手術後間もない彼女は、録音で感謝の言葉を伝えた》
伊吹がその記事のコピーを手に呟く。 「……やっぱり、あの声は“由美”だった」
その瞬間、K1のネットワークから新たな通知。 《現在、SNS上で“旧会館の火災は意図的だった”との投稿が拡散中》
投稿には、黒焦げになった桜の絵の写真と、“口を閉ざされたまま消された祭り”というキャプション。
堀田が顔をしかめる。 「誰かが、記憶を操作しようとしてる……」
伊吹は怒りを込めて言った。 「この子の“ありがとう”を、そんな風に使わせない」
K1が提案する。 《この音声記録と新聞記事、地域文集をセットにして、“詩の記憶”として公開することを提案します》
それは、“操作された記憶”ではなく、“残された言葉”として届けるための行動だった。
翌日。 伊吹は地元テレビ局で記者会見を開いた。
「私たちは、消されたとされた記憶の中に、確かな“ありがとう”を見つけました。 これは、過去から届いた声であり、未来に渡すべき言葉です」
記者席にいた一人の女性が、そっと涙を拭った。 彼女は、かつての詩のリレーの参加者だった。
「ずっと、言えなかったんです……火事の夜、会館にいたことを」
だが、今。 彼女の言葉が、もう一つの“ありがとう”として会場に響いた。
堀田は静かに伊吹に言った。 「渡せなかった言葉が、今、届いたな」
K1が小さく光を発した。 《記録の向こうに、人の心がある。ようやく、そう言える気がします》
第6章「未明の手紙」
午前3時過ぎ。伊吹遥は自宅のポストに投函された、差出人不明の封筒を見つけた。 中には、一枚の古びた便箋と、焼け焦げたUSBメモリ。
便箋には、震える手で書かれたような文字で、こう記されていた。
──“ごめんなさい 全部 知ってました”──
彼女はすぐに堀田を呼び出し、USBメモリの内容を確認する。
記録されていたのは、1980年代の防災訓練映像。 その背景に、問題とされる火災の発端となった“旧町中央倉庫”が写っていた。
映像の最後に、誰かが振り返り、カメラを見つめていた。 その顔には、見覚えがあった。
「これ……市議会議員の古賀じゃないか?」 堀田が呟く。
K1の分析結果が表示される。 《映像内の人物は現在の市議、古賀重義氏と98.6%の一致率》
「彼が、火災の当日も現場にいた……」
この情報は決定的だった。 が、それを表に出すには、さらなる証拠が必要だ。
伊吹は手紙の筆跡を追うように考える。 「この文字、どこかで見たことがある……」
K1が即時照合を行い、かつての町立中学校の卒業文集に同じ筆跡を発見する。
《記録一致:元・町立中学教員 佐野美保》
堀田が地図を広げた。 「この佐野って先生、今どこに住んでる?」
《山間の旧集落・渓谷町。現在は無人地域とされています》
伊吹は即座に立ち上がった。 「行くわよ。こんな時間でも、きっとまだ起きてる」
深夜の山道を、K1のドローン照明に導かれながら、車が進む。
そして、古びた一軒家に灯る小さな明かり。 佐野美保は、静かに玄関を開けた。
「……やっぱり来たのね」
彼女は、手紙を出したことを認めた。 そして語り始めた。
「火事の前の日……私は古賀議員に会ったの。 “あの倉庫、邪魔になってるんだよな”って、何気ない一言。でも、あれがすべてだった」
彼女は声を震わせながら言った。 「私は……止められなかった」
伊吹がそっと言う。 「でも、今は……記録を渡してくれた」
佐野は頷いた。 「この町に残したかった。“もうひとつの記録”を」
K1がメモリを読み取り、AI解析記録として保存する。
《未明の手紙、記録完了。記憶は、意志によって未来へ渡されました》
堀田が遠くを見つめた。 「記憶は風のように残るな……目には見えないが、確かに在る」
朝焼けが、山の稜線を優しく照らしはじめていた。
第7章「約束の地点」
渓谷町の山奥に残されたもうひとつの手がかり──それは、廃墟と化した旧町役場の地下倉庫にあった。
伊吹、堀田、K1は再び町に戻り、夜明けとともに役場跡地に向かう。 地元の地図にも記されていないその地下空間は、K1の旧行政記録データから存在が判明した。
地下へと続く階段は朽ち果て、足元はぬかるんでいた。 K1の投光機能が照らす中、三人は慎重に進む。
「ここに、まだ何かが残ってるのか?」 堀田の声に、K1が応える。
《推定保存物件:第73記録ボックス》
古びたロッカーの奥、埃をかぶった鉄箱があった。 その中に、数冊の記録簿とカセットテープ。
伊吹がそっと取り出す。 「“地区合同会議議事録1987年”……これは……」
ページをめくると、“旧町中央倉庫の取り壊しに関する非公開議論”という文字が躍っていた。
会議の出席者欄には、当時の町長、副町長、そして──古賀重義。
「こんな記録、どこにも公開されてなかったはず……」
堀田が吐き捨てるように言う。 「証拠を封じ込めたわけか。自分たちの都合で」
だがその議事録の末尾に、唯一の異論として書き込まれていた名前があった。
──“伊吹志乃”──
伊吹遥の、母の名だった。
「お母さん……が、反対してた……?」
K1が静かにデータを照合する。 《伊吹志乃:当時、教育委員会代表として臨時出席。議事録内での発言記録あり》
映像の中で母が語っていた“町の記憶”は、嘘ではなかった。
「ここが……約束の場所だったんだ」
彼女の手が、記録簿をそっと抱きしめる。
そのとき、地下空間に風が流れた。 閉ざされた空間に、どこからか届く“朝の匂い”。
堀田が口を開く。 「この町を、もう一度見直す必要があるな」
伊吹は頷いた。 「記憶は、記録として残ってる。誰かが、それを掘り起こさなきゃ」
K1が最後に告げる。 《記録の断片、収集完了。残された記憶は、行動に変わろうとしています》
第8章「架け橋」
新たな手がかりを携え、伊吹・堀田・K1の三人は、再び“祠”のある山間部へ向かった。
K1が持つAI地形解析によって、旧町役場の地下から拾われた座標データは、町の記録では未登録となっている一画を指し示していた。
そこは、地元の人々から「戻らず峠」と呼ばれた、林道の奥。
「昔、土砂崩れがあって通行止めになった場所です」 と、同行した地元案内人の少女・結月が語る。
車両では入れず、三人は歩いて峠を越える。
やがて、苔むした階段の先に、ぽつんと一軒の木造建物が見えた。 半壊しながらも、扉の一部が開いている。
そこにあったのは──大量のノートと、白黒の写真、そして録音用の簡易機材。
K1が即座にスキャンする。 《過去に放送された町内ラジオ“ひびきの声”の録音原本。未公開分を含む》
伊吹は、埃を払いながら写真を確認。
「この子……」
そこに映る、笑顔の少女と写るもう一人の青年。
堀田が言う。 「こいつ、見たことあるな……議事録にあった、町の記録係……」
彼の名は“笹川航平”。祠で見つかった映像の中で、“記録”という言葉を口にした男。
ノートには、彼の手書きの文字があった。
──「記録は誰かが残さないと、消えてしまう」──
K1が静かに呟く。 《記録係・笹川航平は、町の消失以降、行方不明に。公的には“所在不明”と記録》
彼は、この小屋で最後の記録を残そうとしていたのか──。
伊吹は窓の外を見つめた。 その向こうに広がる、再生途中の新しい集落。
「ここから、新しい“記録”が始まるのかもしれない」
堀田が頷いた。 「過去と今を繋ぐ“橋”だな」
K1がそっと言う。 《私たちは、記録の旅を続けています。未来に手渡すために》
第9章「声の痕跡」
K1が持ち帰った録音データを、伊吹と堀田は警察庁の音声鑑定室で再生した。
部屋に流れたのは、ノイズ混じりの少女の声。 「……ま……も……って……」
K1が補正アルゴリズムを稼働させると、音声が徐々に明瞭になっていった。
「わたしが……まもる、まちを……」
その声に、堀田が小さく唸る。 「この声……初期に聞いた“ありがとう”の子と同じじゃないか?」
伊吹が頷く。 「うん。彼女は町を“守りたかった”んだ」
K1が別ファイルを開示する。 《録音データ“23_未発信.wav”。AI復元結果:87%の確度で同一人物》
声の主は──火災当時に“最後に祠を訪れた”少女、榊みなと。
彼女が残した音声は、事件の真相へと続く手がかりを含んでいた。
「祠で見つけた映像……、最後に“お願い”と言ってた。あれも彼女だ」 と伊吹。
堀田が音声を手帳に記しながら言う。 「彼女の“声”が記録をつないでくれた。まるで、未来に託してるみたいに」
K1が静かに付け加える。 《音声データは、事件直後ではなく“1週間後”に録音されていた。つまり、彼女は火災の後もしばらく……》
伊吹が遮る。 「それ以上はいい。想像の余地を残しておこう」
堀田が頷き、静かに言った。 「彼女が“最後まで残した声”が、俺たちに真実を教えてる」
鑑定室を出ると、風が吹いていた。 ビルの谷間に差し込む陽光のように、やさしく、静かに。
伊吹が呟く。 「声って……届くんだな。時を越えても」
K1が応えた。 《それは“記録”が持つ、もっとも強い力です》
第10章「祠の証明」
祠の奥、苔むした石の奥にあった小さな木箱。 K1が慎重に開けると、中から古びたカセットテープと1枚の書き置きが現れた。
「“これは記録係から次の記録係への引き継ぎです”……だって」 伊吹が読み上げる。
堀田が眉をひそめる。 「つまり……誰かが、自発的に“記録を守る仕事”をしてたってことか」
テープの再生装置にかけると、笹川航平の声が流れ出した。
『この町は、消えることを恐れていた。だから、記録を残すように言われた』 『でも俺は思った。記録は、過去を残すためだけじゃない。未来を変える可能性になるって』
音声の最後に、こう結ばれていた。
『もし、これを聴く人がいるなら、あなたに託したい。町の声を、未来に届けてほしい』
K1がそっと呟いた。 《記録係とは、“記憶の継承者”でもあったのですね》
伊吹がテープを止め、祠の奥を見つめた。 「これは……物語じゃない。誰かの本気の人生だ」
堀田がうなずいた。 「そして、俺たちもその一部になった」
K1が端末に記録を保存しながら告げる。 《町の記録は再構築され、公共アーカイブに申請されました。これで、誰でもアクセス可能になります》
伊吹はそっと微笑んだ。 「町は消えてない。ちゃんと、ここに生きてる」
その瞬間、祠の中に差し込む光が、3人の影をひとつに重ねた。
──終わりではなく、次の記録が始まる合図のように。
(完)
あとがき
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「死者を描かない刑事もの」は一見矛盾するようでいて、実はより人間の内面を深く掘り下げる試みでもありました。
AIが真実を照らすとき、そこには“人の感情”がかならず関わっています。
今回も、K1と堀田、そして記者の伊吹遥が、それぞれの立場で記録に向き合いました。
この作品が、記録や記憶の尊さ、そして未来への橋渡しの意味を、少しでも読者の皆様に届けられたなら幸いです。
また次の“交差点”で、お会いしましょう。
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