目次
第1章:報道される「属性」──繰り返される無職・独身・中年男性の犯罪
まえがき
本書を手に取ってくれたあなたに、まず感謝を伝えたい。
社会が加害者に向ける視線は、冷たい。
だが、なぜ“あのような事件”が起きるのかを真剣に考えようとする人は、そう多くない。
無職。独身。中年。
――この言葉には、いつしか“社会の敗者”というラベルが貼られてしまった。
だが、誰がそうさせたのか。
彼らは本当に“怠けていた”のか。
助けは届かなかったのか。
社会は、見て見ぬふりをしていなかったか。
これは、事件の裏側にいる「声なき人々」の記録である。
誰もが逸脱し得る時代に、私たちはどう人を見つめ直せばよいのか。
その問いに、静かに、そして真っ直ぐに向き合っていきたい。
第1章:報道される「属性」──繰り返される無職・独身・中年男性の犯罪
「またか」から始まる報道の既視感
日本で凶悪事件が起こるたびに、報道の中で繰り返されるフレーズがある。
「加害者は50代の無職男性」
「近隣との接触は少なく、独身で一人暮らし」
「仕事もなく、社会との接点はほとんどなかった」
このようなテンプレート化された描写に、私たちはどこかで「またか」と反応する。
それは報道がステレオタイプを強調しているからではない。
実際に、ある種の事件が特定の属性に集中しているという現実があるからだ。
統計から見える「属性の偏り」
警察庁の犯罪統計を分析してみると、
家庭内の殺人、通り魔的な無差別暴力、放火、さらには「巻き添え型」の自死事件など、
衝動的・破壊的・自暴自棄型の犯罪には、
**“無職・独身・中年男性”**という属性が非常に多く見られる。
とりわけ特徴的なのは、
年齢帯:40代後半〜50代前半
雇用形態:長期無職もしくは不安定就労
住環境:単身・孤立・都市部周縁地域
精神状態:診断はつかないが明らかな逸脱傾向
つまりこれは偶然の産物ではなく、構造的な「蓄積と逸脱」の最終点なのだ。
なぜこの層に集中するのか
本書の最大の問いはここにある。
なぜ、彼らなのか。
なぜ、彼らだけが突き抜けて逸脱するのか。
なぜ、彼らは「爆発する」しかなかったのか。
事件を犯した者を単に「異常者」として排除することは簡単だ。
だが、それでは何も防げない。
構造を見なければ、次の事件は必ずまた同じ属性の人間から起きる。
ステレオタイプを超えた“社会病理”としての現象
ここで重要なのは、
本書が「無職」「独身」「中年」「男性」という属性を差別的に断じようとする意図では一切ないということだ。
むしろ、そのようなレッテル貼りが「声を上げられない存在」を量産してきた。
本書が注目するのは、
この属性が単なる個人の問題ではなく、**社会構造が作り出した“孤立の最終形”**であるという点だ。
「無職・独身・中年男性」は誰でもなり得る
かつては仕事があり、家庭があり、仲間がいた。
だが、リストラ・離婚・親の死・人間関係の断絶……
そのどれか一つで人間は簡単に転落する。
事件を起こす無職の中年男性は、特別な存在ではない。
社会に“見捨てられた”という認識を持ち始めたとき、
誰もがこの構図の中に組み込まれていく。
次章へ──「社会との接点の喪失」という問題
第2章では、
彼らがどのようにして社会との接点を失っていったのか、
その過程を追う。
就職氷河期世代、非正規雇用、地域の希薄化、家族の不在。
そこにあるのは、個人の怠惰ではなく**時代に押し流された多数の“沈黙した声”**である。
第2章:「社会との接点の喪失」がもたらす孤立
――“ただ誰とも話さなくなった”先にあるもの
「誰とも話していない時間」が始まる
事件を起こした加害者の多くに共通しているのは、
「誰とも話さない時間」が日常化していたという点である。
退職後に職場との接点を失う
離婚や死別で家族を喪失する
地域社会から自然に消えていく
こうしたプロセスの中で、彼らは“社会の外”に押し出されていく。
目立つ転機はない。
ただ静かに、接点が消えていくのだ。
雇用喪失は「役割」と「意味」の消失
仕事を失うことは、収入を失う以上に
「自分が誰かにとって必要とされている」という感覚の喪失をもたらす。
人は、「あの場所に行けば誰かが自分を待っている」という事実だけで生きていける。
だが、退職・リストラ・就職失敗が続けば、
その“必要とされる場所”はなくなる。
そして、「自分にはもう居場所がない」という内なる囁きが始まる。
家族・友人との断絶
人間関係の断絶は、加齢とともに急速に進む。
親は亡くなり、兄弟とは疎遠になり、
独身であれば家庭も持たない。
「たまに電話する人すらいない」
「病気でも看病してくれる人がいない」
その状態は、単に“孤独”という言葉で済まされるものではない。
それは存在の根幹が揺らぐ恐怖である。
「話し相手がいない」ことの破壊力
人間が逸脱する直前には、たいてい「誰にも相談していなかった」という事実がある。
逆に言えば、
たった一人でも“気づいて声をかける人”がいたら救われた可能性がある。
だが社会は、その一人を失わせる構造に満ちている。
孤立は、声をかける人のいない環境と、声をかける勇気のない自分の両方によって完成する。
「普通」に見えた彼らが壊れていく理由
多くの加害者は、事件直前まで「特に問題のある人物」とは見なされていなかった。
近所づきあいは希薄、騒ぎも起こさない、トラブルを起こした履歴もない。
だが、その“静かさ”の裏側に、
何年も誰とも対話してこなかったという事実がある。
誰にも制止されず、誰にも諭されず、
ただ自己の世界に沈み続けた末に、
“暴力”という言語だけが最後に残った。
都市構造と孤立の親和性
都市においては、誰もが「顔を知らない隣人」と隣り合って暮らしている。
これは自由であると同時に、逸脱の監視が働かない空間でもある。
“顔見知りのいない暮らし”
“誰に見られているか分からない暮らし”
それは、逸脱に対する抑止力を限りなく弱める。
つまり、都市という空間自体が**“孤独な逸脱者”の温床**となりうるのだ。
第3章へ――中年男性と「感情の抑圧」
次章では、社会が中年男性に対して求めてきた
「感情を見せないこと」
「弱音を吐かないこと」
「怒りを内に抑え込むこと」
こうした抑圧が、いかにして爆発的な逸脱に変化していくかを論じる。
第3章:中年男性という「感情の抑圧」装置
――「泣くな」「怒るな」の末に何が起きるか
感情を封印された世代
中年男性――とりわけ団塊ジュニアから就職氷河期世代にかけての男性たちは、
社会から一貫してこう教えられてきた。
「泣くな」
「弱音を吐くな」
「感情を見せるな」
「黙って耐えるのが男だ」
この“感情封印の文化”は、彼らの人格形成の奥底に刻み込まれている。
その結果、感情を表現する言語を持たず、
「怒り」「悲しみ」「寂しさ」さえも抑え込む人格構造ができあがった。
抑圧された怒りは「破壊」に変わる
怒りは、発露されない限り「内攻」する。
そのまま言葉にできなければ、
やがて「自傷」か「他害」という形でしか出口がなくなる。
とくに無職・独身・孤立した中年男性にとって、
怒りを共有できる相手はどこにもいない。
SNSは罵倒と比較の海であり、
行政も企業も「何かあってから」しか動かない。
つまり、彼らの怒りはずっと封印されたまま、体内で腐敗していく。
「相談する」は敗北とされる文化
相談は、助けを求める行為であり、
本来は人間の尊厳を守る手段である。
だが、彼らが生きてきた社会は、
「他人に頼る=甘え」「泣き言はみっともない」と断じてきた。
だから彼らは、
病気になっても医者に行かず
借金を抱えても誰にも言わず
苦しみが限界でも、ただ無言で潰れていく
その結果、社会の目に映る頃には「逸脱者」になっている。
「感情表現」は訓練されないと身につかない
怒りや悲しみを「安全に表現する技術」は、
教育や対話、家庭内での経験から獲得されるべきものだ。
だが、多くの中年男性はそれを奪われて育ってきた。
親が感情を示さない家庭
男子校文化の沈黙
社会での上下関係による抑圧
こうして彼らは、「表現の言語」を持たないまま大人になる。
そして40代・50代になって、孤立・喪失・絶望が訪れたとき、
彼らに残されているのは沈黙と暴力だけなのだ。
加害と被害の「あいだ」で
事件の加害者として報じられる中年男性は、
かつてどこかの家庭で「父」であり、「夫」であり、「息子」だった。
そして、多くの場合は“かつての被害者”でもある。
長時間労働に疲弊して家族に無視された男
不当な解雇にあい行政に救われなかった男
子どもを愛していたが離婚で面会を絶たれた男
彼らの“過去”は報道されない。
だが、加害と被害は連続している。
第4章へ――無職が生む「空白の時間」
次章では、仕事を失い、意味のない日々を過ごす中で、
人間がどのように自己崩壊していくのかを追う。
無為の時間は、決して中立ではない。
「暇」は狂気の種になり得るのだ。
第4章:無職が生む「空白の時間」
――意味のない日常は、静かに人を壊していく
「ただ毎日が過ぎるだけ」
朝起きる理由がない。
向かう場所がない。
会う人もいない。
無職の時間は、自由ではなく無重力の空白である。
その空間に長く留まるほど、人間の内面は蝕まれていく。
目的なき日常は「自己否定のループ」を生む
仕事がないということは、日々の行動に意味づけができなくなるということだ。
起きる理由がない
外出する必要がない
誰かと会話する義務がない
その結果、「自分は今日、何もしていない」という思考が
毎晩、静かに自尊心を削り続ける。
そしてそれが何週間も、何か月も続いた先に、
人は「自分なんかいなくていいのではないか」という結論に至る。
「時間を持て余す」という地獄
何もしない時間は、人を休ませるどころか狂わせる。
人間は本能的に“目標”や“役割”を必要とする生き物だ。
だが無職になったとき、
誰かから頼られることも
「お疲れ様」と言ってもらうことも
翌日に予定があることも
すべて失われる。
そして残るのは、SNSやテレビから流れ込んでくる
「他人の幸せ」だけである。
比較と嫉妬と絶望のスパイラル
暇な時間、つい手が伸びるスマホ。
SNSのタイムラインには、
昇進報告
家族写真
子どもの成長記録
海外旅行の投稿
誰かの「いいね」数の多さ
何一つ、今の自分にはない。
羨望から始まった閲覧が、やがて憎悪に変わる。
「なんであいつが」
「俺はこんなに苦しんでいるのに」
「誰も俺を理解してくれなかった」
その怒りは、対象を定めぬまま膨れ上がり、
社会全体に向かっていく。
「社会が悪い」と感じた瞬間に歯止めは消える
“自分だけが損をしている”
“誰も自分を助けてくれなかった”
“この社会は腐っている”
その認識が確信に変わるとき、
行動へのハードルが一気に下がる。
「どうせ人生は終わっている」
「だったら道連れにしてやる」
「せめて自分の名前くらいは残したい」
ここで初めて、「破壊」という選択肢が現実になる。
見えない「助け」を拒絶する心
「誰にも相談できなかった」
「自分のことを気にしてくれる人はいなかった」
事件後にそう語られることが多いが、
厳密には、“声をかける存在”は社会のどこかにあった可能性はある。
だが問題は、彼ら自身がそれを拒絶する内面になっていたということだ。
「今さら惨めな姿を見せたくない」
「プライドが許さない」
「どうせ誰も本気では助けてくれない」
そうして、助けられる可能性を自ら閉ざす心理状態が形成される。
第5章へ――独身がもたらす「逸脱の無制限化」
次章では、家族という“逸脱の抑止力”を持たない独身者が、
なぜここまで暴走しやすいのかを分析する。
家庭というセーフティネットが、
どれほど社会的に機能していたかを再確認する章になる。
第5章:独身がもたらす「逸脱の無制限化」
――“止める人がいない”ことの社会的リスク
「家族がいない」ことは、なぜ問題なのか
結婚していないこと、それ自体が問題ではない。
だが、事件の加害者プロフィールに頻出する「独身」の二文字は、
ある社会的機能が欠けていることを意味している。
それは、逸脱を止める“内なる目”の不在である。
家族は“鏡”であり“鎖”でもある
家庭がある人間は、自分の言動を常に“誰かの目”で見返す習慣がある。
子どもがどう思うか
配偶者がどう受け取るか
家族に迷惑をかけるのではないか
この“内なる制御装置”がある限り、人は簡単には逸脱できない。
だが、独身の中年男性には、
この「内なる第三者」がいない。
「自分ひとりなら、どうなってもいい」
独身で、かつ家族とも絶縁状態にある人間は、
ときに驚くほど無防備な思考に陥る。
「どうせ一人なんだから、失うものはない」
「死んだところで誰にも迷惑かからない」
「俺の人生はもう壊れている」
この認識のもとでは、どんな行動も“割に合う”と錯覚してしまう。
逸脱の限界が消滅するのだ。
「誰かのために」生きる機会の喪失
家族がいると、人は“自分のため以外”の理由で踏みとどまることができる。
もう一度子どもに会いたい
妻に迷惑をかけたくない
親の面倒を最後まで見たい
それらの思いが、暴走を抑止する。
だが独身者には、そうした「自分を外側から見つめてくれる存在」が不在である。
社会的に孤立した彼らは、“私”以外の視点を失い、暴走のトリガーを引きやすい。
抑止力としての「日常の会話」
独身でかつ孤立した生活をしていると、
誰かに今日の出来事を話す機会が一切なくなる。
たとえば既婚者であれば、
今日あったことを配偶者に話す
愚痴をこぼして気持ちを整理する
相手からの何気ない言葉で自分を見つめ直す
という“心理の浄化”プロセスがある。
しかし孤独な独身者にはそれがない。
「考えが発酵し続けるだけ」で発散されないのだ。
独身者への「支援」は存在しない
子育て支援、高齢者福祉、生活困窮世帯の補助――
行政支援の大半は、“何らかの共同体”を前提に組まれている。
だが独身の中年男性は、
子もなく
親もすでに他界し
配偶者もおらず
地域活動にも参加せず
つまり支援対象として想定されていない。
その“見落とされている層”が、実は最も危うい。
第6章へ――「名もなき怒り」はどこから来るのか
次章では、事件の加害者たちが抱えていた
「誰にも向けられない怒り」について考察する。
その怒りは、誰に対するものだったのか?
何に裏切られたと感じていたのか?
なぜ彼らは、“社会”を敵とみなすに至ったのか?
第6章:「名もなき怒り」はどこから来るのか
――認められなかった人生が、生むもの
「怒りの矛先がない」という異常
事件の動機としてよく語られるのが「社会への不満」だ。
だが、その“社会”とは何か。誰なのか。何に対して怒っているのか。
多くの場合、明確な対象はない。
ただ漠然と、「誰かが自分を踏みにじった」という被害感情だけが燃え続けている。
これが、**「名もなき怒り」**である。
「俺を認めてくれなかった」
この怒りは、他人を憎んでいるようで、実は「自分自身の無価値感」と深く結びついている。
就職活動で落とされ続けた
誰にも頼られなかった
家族にも見放された
努力しても報われなかった
その蓄積は、「なぜ誰も自分を評価してくれなかったのか」という怨念に変わる。
やがて彼らはこう考えるようになる。
「社会そのものが間違っているのだ」と。
「自分の存在を証明したい」
事件を起こした多くの加害者が、
「自分の名前を知ってもらいたかった」
「無視され続ける人生が悔しかった」
と語るのは偶然ではない。
それは、存在の証明に他ならない。
社会に認められなかった人生の果てに、
彼らが選んだのは「破壊による痕跡の刻印」だった。
“破壊されない限り、誰も気づいてくれない”という確信。
「正当に扱われたことがない」という屈辱
多くの中年男性は、
非正規雇用のまま定年が近づき
結婚の機会もないまま
住宅も保険も将来もないまま
「自分は何をしても報われない」という不公平感を抱えている。
この不公平感は、
自分が軽んじられ、見下され、無視されてきたという怒りとなって心に蓄積する。
「努力しなかったわけじゃない」という叫び
忘れてはならないのは、
事件を起こす彼らの多くが、「努力した経験」を持っていることだ。
高校・大学受験で頑張った
正社員を目指して就活を繰り返した
親の介護をしてきた
借金してでも一時期は働いていた
だが、その努力はことごとく報われなかった。
そして周囲からは「怠け者」「自己責任」「無能」と断じられる。
その断罪が、深い怒りと憎悪に火をつける。
怒りは「自己破壊」と「他者破壊」の間で揺れる
ある者は、自ら命を絶つ。
ある者は、周囲を巻き込む暴力に走る。
どちらも、「怒りの行き場がない」ことの帰結である。
誰かに伝えたかった
誰かに理解してほしかった
誰かに「よく頑張った」と言ってほしかった
それが一度も満たされなかった末に、
破壊という言語が選ばれてしまったのだ。
第7章へ――支援制度の「穴」に落ちる人々
次章では、
・なぜ行政は彼らを救えなかったのか
・なぜ民間支援は届かなかったのか
・なぜ「声を上げられない」人がこんなにも多いのか
支援からこぼれ落ちる中年男性たちの現実を描きます。
第7章:支援制度の「穴」に落ちる人々
――なぜ誰も彼らを救えなかったのか
「制度はあるが、届かない」
日本には、困窮者向けの支援制度が数多く存在する。
生活保護
住宅支援
就労訓練
生活困窮者自立支援法
自治体の臨時福祉給付金
しかし、事件の加害者となる中年男性たちには、
それらが「機能していない」。
制度が「ある」ことと、
制度が「使える」ことは、
まったく別の話である。
最大の壁:「申請しに行く」という行為
支援制度を受けるには、
自分で役所に足を運び、
自分の困窮を説明し、
職員と向き合い、
書類を出し、面談を受ける必要がある。
これが、中年男性にとっては
“屈辱”であり“敗北”であり“恐怖”ですらある。
「人前で泣くくらいなら飢えた方がマシ」
「あんな場所で頭を下げたくない」
「たかが金のためにプライドは捨てられない」
この“感情の壁”が、制度と彼らの間に立ちはだかる。
「生活保護=恥」という社会通念
彼らは、生活保護を受けることが**“人間失格”の証明**のように感じている。
世間体が悪い
親戚に知られるのが怖い
ネットで叩かれる
「自分だけが特別扱いされている」と思われたくない
これらの感情は、
制度利用を「生き残るための手段」ではなく、
「社会的自殺」と感じさせてしまう。
結果として、制度が“存在していない”のと同じ状態が続く。
自治体支援の「効率主義」と“相性の悪さ”
市区町村の職員もまた、多忙と形式主義に追われている。
住民を一人ひとり丁寧にケアする余裕はない。
「書類を出してください」
「審査が必要です」
「条件に該当しません」
こうした冷たい言葉に、
ギリギリの精神状態にいる彼らは傷つき、去っていく。
そこにあるのは“無関心”ではなく、**“制度と人間の不適合”**である。
支援団体やNPOとの「出会い方」問題
民間の支援団体やNPOは熱心に活動している。
しかし、彼らにたどり着くには“検索”や“人づて”の情報が必要だ。
だが孤立した中年男性は、
スマホも持っていない
地域ネットワークから外れている
助けを求めるという発想自体がない
情報の“届かない層”にこそ支援が必要なのに、彼らには届かない。
支援されるための「条件」を満たせない人々
制度には、必ず「審査」がある。
健康かどうか
就労意欲があるか
家族から援助が受けられないか
本当に困窮しているか
この“条件付きの支援”というシステムは、
心が折れている人間にとっては“壁”でしかない。
だから彼らは、支援をあきらめ、
「社会は自分を見捨てた」と確信する。
第8章へ──“可視化されない孤独”の正体
次章では、
見た目ではわからない「孤独」や「絶望」が、
なぜここまで蓄積され、
誰にも気づかれないまま事件へと至るのかを描きます。
第8章:可視化されない「孤独」という病
――“普通に見える人”がなぜ壊れていくのか
「孤独」とは、誰かと一緒にいないことではない
現代社会における孤独は、
単に「ひとりでいる」ことを意味しない。
会社に通っていても
買い物をしていても
すれ違う人とあいさつをしても
自分の存在が、誰の心にも触れていないと感じるとき、
人は孤独になる。
「壊れていく人」は見た目ではわからない
報道される加害者像は、
「まさかあの人が」
「大人しくて普通だった」
「トラブルを起こすようなタイプではなかった」
という言葉で語られることが多い。
だがそれは、
「壊れた人」が周囲に気づかれないまま日常を生きられる社会であることを示している。
マスクと帽子で表情を隠す
人との接触を避ける
AI化・無人化で会話が減る
社会は、孤独を巧妙に“隠す”構造に変化している。
孤独は「音のない破壊」である
孤独は、一気に人を壊すわけではない。
会話のない一日
予定のない一週間
連絡のない一か月
その積み重ねが、人間の“存在価値”を奪っていく。
そしてある日突然、
「自分はもう誰からも必要とされていない」
「このまま消えても気づかれない」
という絶望の認識に至る。
人は「他者の目」によって存在する
“他人の目を気にしない”ことが美徳とされる社会がある。
だが実際には、人間は常に他者のまなざしによって存在を実感している。
誰かに褒められる
失敗しても励まされる
食事を一緒にする相手がいる
こうした日常的な関わりこそが、
人の精神を安定させている。
その“まなざし”を完全に失ったとき、
人間は「自己評価」だけで生きなければならなくなる。
それが続けば、いずれ誰でも壊れる。
孤独がもたらす「認知の歪み」
長期間の孤独は、
自分の考えを他人とすり合わせる機会を奪う。
怒りの正当性が確認できない
被害者意識が膨らみ続ける
世界への不信が確信に変わる
こうして人は、“思い込み”の世界に閉じこもり、
やがてそれが現実と断絶していく。
誰も「おかしい」と言ってくれない。
だから逸脱が進行する。
「見えない孤独」に社会がどう向き合うか
孤独は病ではない。
だが、放置すれば病を引き起こす。
精神疾患
衝動行動
暴力的な選択肢
これらの背景には、
長く気づかれなかった孤独が横たわっている。
孤独を可視化し、手を差し伸べる仕組みは、
いまだ十分に整っていない。
第9章へ――「男らしさ」という呪い
次章では、
“中年男性”という属性そのものが背負わされた
「男なら黙ってろ」
「一人でやり遂げろ」
「泣くな、弱音を吐くな」
といった価値観が、
彼らをなぜこんなにも追い詰めたのかを掘り下げます。
第9章:「男らしさ」という呪い
――加害者をつくる“教育”と“社会通念”の正体
「男なら我慢しろ」と言われ続けた世代
中年男性――とくに団塊ジュニアから就職氷河期世代にかけて、
彼らは一貫してこう言われ続けてきた。
「男は黙って働け」
「泣くな、甘えるな、頼るな」
「一人前の男なら自立して当然だ」
「男は弱音を吐いたら終わりだ」
こうした言葉は、しばしば“美徳”として語られる。
だが実際には、**「助けを求める能力を奪う呪い」**に他ならなかった。
「強さを演じる」ことが生存戦略になった
家庭内でも、学校でも、職場でも、
「強く見えること」は男たちの通貨だった。
多少の暴力に耐える
精神的に追い詰められても顔に出さない
上司に叱責されても無言でやりすごす
家族を支えながらも、自分の感情は飲み込む
この“強さの演技”が求められる環境に長く身を置けば、
「本当の感情に気づかない人間」が育つ。
「弱さ」は、社会的死だった
社会は、「弱音を吐ける男」を許さなかった。
病気になっても自己管理不足とされ
金銭に困っても努力不足とされ
孤独を語れば気持ち悪がられ
涙を見せれば女々しいと嘲笑された
この社会の空気が、男たちから「SOSを発する自由」を奪った。
そして、「崩れる前に声を上げる」という選択肢を消し去った。
「自己責任」の正体は、男らしさの裏返し
中年男性は、社会からもっとも“自己責任”を求められる存在だ。
離職すれば「職歴に傷」
結婚しなければ「問題があるのでは」
孤独になれば「性格に欠陥がある」
貧困になれば「努力が足りない」
だがこの「責任論」の背景には、
「男なら当然こなせ」という前提が横たわっている。
つまり、“男”というジェンダー自体が、
“失敗を許されない呪縛”となって襲いかかる。
「優しさ」も「相談」も学べなかった
社会は、男に「戦い方」だけを教え、
「つながり方」「頼り方」「癒し方」を教えなかった。
会話は勝ち負け
感情表現は不要
他人を信頼するのは危険
家族関係も“役割”がすべて
こうした文化に育てられた結果、
彼らは「心の武器」を持たぬまま、社会という戦場に放り込まれた。
当然、敗北すれば“死ぬ”しかないと錯覚する。
加害者は、社会通念の“犠牲者”でもある
事件を起こした中年男性は、
たしかに自らの意思で暴力に至った。
だがその背後には、
**何十年もかけて形成された「感情を潰す教育」と「孤独を放置する文化」**がある。
そしてそれは、社会全体が温存してきたものであり、
「加害者をつくる構造そのもの」でもある。
第10章へ――「私たちは、彼らをどうすればよかったのか」
最終章では、
事件を未然に防ぐために、私たちは何を変えられるのか。
支援・社会通念・教育・つながり。
あらゆる観点から**“構造を変える可能性”**を探ります。
第10章:私たちは、彼らをどうすればよかったのか
――“加害者を生まない社会”への最後の問い
「責任を問う」から、「構造を問う」へ
事件が起こるたび、私たちはこう言う。
「なぜ防げなかったのか」
「なぜ気づけなかったのか」
「なぜ助けてあげられなかったのか」
だがそれらはすべて、
“個人の過失”としての問いかけでしかない。
今必要なのは、個人ではなく、構造への問いだ。
なぜこんなにも孤独な中年男性が増えたのか
なぜ支援制度からこぼれる人がこれほど多いのか
なぜ「助けてくれ」と言えない社会になったのか
「加害者を憎む」だけでは、何も変わらない
怒りや悲しみの感情は、事件の直後には避けられない。
だが、社会が「怒り」にとどまってしまえば、
次の事件を確実に見落とす。
なぜなら、加害者は「他人」ではないからだ。
隣人かもしれない
同僚かもしれない
家族かもしれない
未来の自分かもしれない
だからこそ、「あんなやつ許せない」で終わらせてはいけない。
再発を防ぐには、構造への冷静な目線が必要だ。
「男に生まれた」というだけで、支援対象にならない社会
この国には、「支援される資格」を持たない中年男性がいる。
・児童でもない
・女性でもない
・高齢者でもない
・障がい者でもない
・外国人でもない
だから何かに該当しない彼らは、どこからも見えない。
社会にとって「誰でもない存在」になることで、
彼らはいつしか、自分でも「自分を見なくなる」。
必要なのは「属性」ではなく「状態」に応じた支援
今の制度は、「属性」によって線引きされている。
母子家庭なら
失業者なら
障がい者なら
だが人間は、「属性」で苦しんでいるのではない。
孤独だから、絶望している。
生活が苦しいから、壊れそうになっている。
ならば支援もまた、「今どういう状態か」で構築されるべきだ。
相談できる人がいない
毎日声を出す機会がない
週に一度も誰かに触れない
この“見えない苦しさ”に向き合う仕組みが必要である。
「小さな接点」が救命線になる
すべての人を救うことはできない。
だが、**“手遅れになる前の接点”**なら、つくることはできる。
コンビニで声をかけられる社会
地域食堂で当たり前に孤食を避けられる構造
役所に行かなくても、スマホで感情を相談できる仕組み
ひとりで抱えないことが「当たり前」になる文化
事件の芽は、**「今日、誰にも話しかけられなかった」**という、
小さな瞬間に宿っている。
「誰もが逸脱可能である」という前提から始めよ
最後に強調したいのは、
**“加害者になるのは特殊な人間ではない”**という事実だ。
孤独と絶望が積み重なれば、
誰だって社会を恨み、暴走する可能性がある。
それは他人の話ではなく、
あなたの隣の席にいる人かもしれないし、
明日のあなた自身かもしれない。
だからこそ、
私たちは“人が壊れにくい社会”を目指さねばならない。
【結語】
「無職・独身・中年男性」というラベルに、
偏見や差別の視線を向けるのではなく、
その背景に潜む社会構造と、
彼らが声を上げられなかった現実にこそ目を向けてほしい。
加害者を生まない社会とは、
一人ひとりの「見えない苦しさ」を想像できる社会である。
あとがき
この原稿を書きながら、幾度も心が痛んだ。
事件を起こした彼らの過去に、私たち自身の影が見えたからだ。
家庭を持てず、職を失い、助けを求めることすら許されなかった男たち。
“強くあれ”という社会の呪いのなかで、彼らは壊れていった。
これは加害者を擁護する本ではない。
しかし、彼らを「怪物」として切り捨てることもまた、
次の事件を生み出す温床となる。
この国で孤立し、生きづらさを抱えるすべての人に、
「あなたは一人ではない」と伝えたい。
そして、私たちはもう黙ってはいけない。
“加害者を生まない社会”は、他でもない、今ここから始まる。
――サイコ
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