まえがき（note・Kindle共通）
都市の雑踏を歩いていると、
すれ違う若い女性の多くが「厳しい表情」をしていることに気づく。
彼女たちは、誰にも笑顔を向けない。
目も合わさない。
感情を見せようとしない。
そんな姿に、「冷たい」「怖い」「不機嫌だ」と感じてしまうのは、
果たして彼女たちのせいだろうか。
本書は、その問いから始まった。
無表情とは敵意ではなく、防衛かもしれない。
沈黙とは冷たさではなく、自律かもしれない。
笑顔を期待する社会。
感じの良さを強要する文化。
そして、それを“当然”と思ってしまう私たち自身の内面。
それらすべてに向き合うために、
10章・10万字を費やして、表情と社会の関係を解きほぐしていく。
読んだあと、あなたはきっと、すれ違う誰かの顔を、
もう一度だけ、想像のまなざしで見直すことになるだろう。
目次
第1章：導入──「怖い顔」という問いの背景
――誰が彼女たちを「笑えなく」したのか
駅のホーム、職場へ向かう通勤路、すれ違うショッピングモールの通路。
都市の雑踏の中、無数の若い女性たちが、まるで戦場に赴く兵士のような表情で歩いている。
口元に笑みはなく、目はどこも見ていない。
何かに怯えているようで、同時に誰も寄せつけまいとする鋭さを宿している。
その顔を見て、多くの人がこう感じる。
「最近の女の子は怖い」
「昔はもっと柔らかかった」
「別に怒られてもないのに、なんであんな顔してるのか」
だがこの問いこそが、問いそのものの危うさを示している。
「怖い顔」の定義は誰が決めるのか
まず確認しておくべきは、
「怖い顔」とは、あくまで見る側の主観であるということだ。
ある人には「不機嫌」に見えても、本人はただ考えごとをしているだけかもしれない。
ある人には「不愛想」に映っても、本人はただ他人を見ないようにしているだけかもしれない。
それにもかかわらず、この「怖い顔」は一種の社会的ラベルとして貼られやすい。
特に女性に対して。
つまり、「なぜ女性は怖い顔をしているのか」という問いは、
「女性は本来、感じのいい表情をすべき存在である」という前提のもとに成り立っている。
笑顔を期待される性
女性はいつの時代も、「社会から笑顔を求められる性」だった。
それは家庭でも、学校でも、職場でも、サービス業でも同じである。
たとえば接客において、「男の店員は真顔でいいが、女性は笑顔で」という無言の規範が存在する。
電話越しの対応でさえ、「声のトーンが明るい女性が望ましい」とされる。
これは、笑顔が女性の“性質”であるという誤った性別役割観に基づいている。
笑顔は愛想、愛想は可愛げ、可愛げは従順――
その全てが、社会的な支配構造に直結している。
「笑わない自由」はあるか
このような社会において、「表情を作らないこと」は一種の抵抗である。
すれ違う他人に笑顔を見せない。
電車内で無表情を貫く。
職場で愛想笑いをしない。
こうした選択は、女性にとって「自分の尊厳を守るための、最小限の盾」となる。
それが、結果的に「怖い顔」と受け取られることになる。
つまり、「笑わない彼女たち」は、社会が強いた笑顔の奴隷になることを拒んだ人々なのだ。
なぜ我々は他人の顔に期待するのか
では、なぜ我々はすれ違う赤の他人の表情に、いちいち感情を抱いてしまうのか。
それは、都市生活において「誰にも関与できない孤独さ」と「自分の存在の不確かさ」が常に付きまとうからである。
他人が笑ってくれることで、
「自分は受け入れられている」「拒否されていない」と無意識に安心したい。
その期待が満たされないと、「怖い」「冷たい」「不機嫌」と感じる。
これは女性だけでなく、男性や高齢者にもある種の期待が向けられるが、
女性に対しては特に「笑顔でいて当然」という圧力が強く働く。
だからこそ、その期待を裏切られたとき、人は勝手に「怖い」と感じるのだ。
この問題は“顔”ではなく、“社会”の問題である
すれ違う女性の顔が怖いのではない。
我々が「女性は笑うべきだ」と思ってしまう、その社会的構造こそが問題なのだ。
そしてその構造の裏には、視線・暴力・性別役割・労働環境・情報空間など、さまざまな要因が張り巡らされている。
本連載では、そうした要素を10章にわたり解きほぐし、
「都市を歩く女たちの表情」が意味するものを、冷静かつ徹底的に掘り下げていく。
第2章：都市と女性──視線に晒され続ける日常
――「見られる性」として生きることの、終わりなき緊張
都市を歩く女性の顔が硬くなるのは、
常に視線を浴びているという事実から逃れられないからだ。
都市空間は監視空間である。
だがそれは、カメラや警備の話ではない。
人の目という無数のセンサーが、女性の存在を常に測定している。
「見られる」ことが日常であるということ
すれ違いざまの一瞥、電車内の窓越しの凝視、コンビニのレジに立ったときのまなざし。
それは「見ている」と言うにはあまりに無意識で、
「無視している」と言うにはあまりに濃密な、中途半端な視線の集合体である。
女性たちはこの視線に、毎日さらされている。
そしてそれを避けることは、基本的に不可能だ。
男性と女性では「都市」の意味が違う
同じ駅、同じ街路、同じ人通りの中を歩いていても、
男性と女性とでは、受けるストレスがまるで違う。
たとえば、女性がイヤホンをつけていても、突然声をかけられる。
無視をすれば「無愛想だ」と舌打ちされ、応じれば今度は延々と話しかけられる。
つまり、「何をしていても干渉される」前提の中で都市空間を移動しているのだ。
これは、「歩く」という行為そのものが緊張を強いられるタスクになっていることを意味する。
距離感の侵害が日常にある
満員電車で身体が押しつけられたとき、
エレベーターで無言の視線を受けたとき、
カフェで隣の男が必要以上に笑顔で話しかけてくるとき。
そのすべてが、女性にとっての「無言のストレス」である。
もちろん、悪意があるわけではない。
だが、悪意があるかどうかを毎回判別しなければならないという事実が、
女性たちの顔を無表情にしていく。
それは、他人に笑顔を向けないことではなく、
**「不必要な接触を回避するための自己防衛の構え」**なのだ。
視線の記憶が蓄積されていく
女性の顔が“硬く”なるのは、突然ではない。
それは都市で生きる中で、日々蓄積されていく視線の記憶で形成されていく。
中高生の頃に受けた意味不明なナンパ。
駅での痴漢体験。
バイト中に客から浴びた性的な目線。
SNSで外見を論評された記憶。
そういった「視線の累積」が、ある時点で「私は他人に顔を見せる必要はない」という態度へとつながっていく。
都市とは、女性にとって「舞台」である
男性が都市を「移動の場」として使うのに対し、
女性はしばしばそれを「評価の場」として強制される。
服装、化粧、表情、所作――
そのすべてが、無意識の“見られ方”の中で採点されている。
だからこそ、笑わない。
だからこそ、目を合わせない。
だからこそ、何も語らない。
それは、舞台から降りるための表情なのだ。
第3章：「女は笑っていろ」の構造
――表情にまで管理が及ぶ社会の暴力
都市の中を歩く若い女性が、無表情であること。
その事実を、「不機嫌」や「怖い」と解釈する社会には、深い無自覚の暴力がある。
それは、「女性は笑顔でいるべきだ」「柔らかくふるまうべきだ」という、
**ジェンダーに紐づけられた“表情の規範”**が、いまだ根深く機能しているからだ。
表情は「性別の仮面」となった
誰も口には出さないが、
多くの社会は、女性に対して「笑顔を見せること」を求めている。
これは職場でも、接客業でも、教育現場でも、家庭内でも、日常的に観察できる現象だ。
その背景には、「女性とは穏やかで、優しく、感じがよく、安心を与える存在であるべき」という性別ロール（役割期待）がある。
つまり、表情ですら性別に紐づけられ、規範化されているのだ。
笑っていない女性が「機嫌が悪い」と見なされるのに対し、
無表情の男性は「普通」とされる。
ここには、表情に対するジェンダー的二重基準が存在する。
感情ではなく“演技”としての笑顔
問題は、笑顔が「感情の表出」として求められているのではなく、
“態度”として演出されることを前提にされている点である。
たとえば、職場で「感じが悪い」とされる女性社員は、
業務に問題がなくても、「表情が硬い」「印象が良くない」と評価される。
その評価の裏には、「女性は空気を和らげる存在であれ」という
暗黙の感情労働の強要がある。
ここで求められているのは、**本人の感情ではなく、周囲の快適さのための“演出”**である。
「怖い顔」は笑顔を強要された結果かもしれない
ある日突然、女性が都市で無表情になったわけではない。
子どもの頃から「ニコニコしてなさい」「女の子は愛想よくね」と言われ続け、
その期待に応えるように、誰かに笑顔を向け、
時には愛想笑いを強いられ、
時には笑顔を誤読され、勘違いされ、痛い目にもあってきた。
その果てに、「もう表情を他人に使うのはやめよう」という境地に達した顔が、
「怖い」と誤解されるのだ。
笑顔を期待されない自由があるか
「笑っていない女性が怖い」と感じる社会は、
裏を返せば「女性はいつでも笑っていてほしい」と期待している社会である。
だが、なぜ女性は「笑わなくてはいけない」のか？
なぜ笑っていないだけで「感じが悪い」とされるのか？
なぜ男性にはその期待がないのか？
この問いに明確な答えを出せないかぎり、
女性が笑わないことは、常に**“社会的逸脱”として扱われ続ける。**
笑わないという表現の自由
都市を歩く女性たちが無表情でいるとき、
それは「誰にも支配されない時間」を生きている証だ。
視線にも、期待にも、忖度にも、もう笑顔を差し出さないという意思の表れだ。
それを「怖い」と感じる我々自身が、
笑顔を過剰に期待しすぎていないかを疑う必要がある。
笑わないという自由があってはじめて、笑顔は意味を持つ。
その自由すら許されない社会であれば、
やがて笑顔そのものが、ただの演技でしかなくなってしまう。
第4章：「安全ではない空間」の中で
――笑顔を手放した女性たちの防衛線
無表情の女性に「感じが悪い」とラベルを貼る前に、
まず確認すべき事実がある。
それは、彼女たちが生きている場所は、安全ではないということだ。
日々繰り返される小さな恐怖、見過ごされる違和感、我慢という名の沈黙――
これらが蓄積した果てに、笑顔は表情の選択肢から外される。
「声をかけられる」という侵入
ナンパは、ただの会話ではない。
それは、無断の介入である。
・イヤホンをしていても外される
・無視をすれば「無愛想」「愛想ない」と逆ギレされる
・逃げてもついてくる
・断っても聞いていない
それは、言葉を使った「支配の試み」であり、
女性の意思を問わず、「関係性」を強制する暴力の一種である。
表情が「隙」と見なされる社会
「怖い顔」ではなく、「油断のない顔」でなければならない。
なぜなら、笑顔を浮かべると、それはしばしば“誘っている”と解釈されるからだ。
この社会では、「ニコッ」としただけで、
「話しかけてOK」「狙っていい対象」と判断される。
つまり、笑顔は親しさのサインであると同時に、
同意なき接触のトリガーとしても誤認されてしまう。
だからこそ、都市を歩く女性は笑わない。
それは、“私は開かれていない”というサインでもあるのだ。
無言の「ノイズ」が常にある
・駅の階段で後ろを歩かれる
・座っているときにスマホをのぞかれる
・カフェでやたらと凝視される
・スーパーで背後にぴったりつけられる
これらは言葉にもならない、
だが確かに身体を緊張させる「微弱なノイズ」である。
これを「気にしすぎ」と断じることは簡単だ。
だが、これまでの人生で一度でも恐怖を味わった女性にとって、
それは警戒を解けない理由になる。
「何もされていない」が積もる社会
人は、明確な暴力だけで傷つくのではない。
「何もされていないけれど、不快で、恐ろしく、疲れる」という感覚が積もることで、
社会に対する信頼そのものが失われる。
そして、その不信の最終形態が“無表情”なのだ。
笑わないのではない。
笑えるほど、安全ではないのだ。
都市は“戦場”である
女性にとって、都市は移動の場ではなく、
視線・言葉・接触・記憶の積層に耐え抜く戦場だ。
・表情を消す
・目を合わせない
・歩く速度を調整する
・イヤホンでシャットアウトする
・ポケットの中で警戒し続ける
これらすべてが、生き延びるための装備であり、
「感じが悪い」と切り捨てられるその顔こそが、
都市で無事に生き延びてきた証明でもある。
第5章：階級と労働──表情を失うほどに疲れている
――「怖い顔」ではなく、「余裕のない顔」という現実
すれ違う女性の顔が硬い。
その表情に「不機嫌」や「無愛想」といったラベルを貼る前に、
見落としてはならない事実がある。
彼女たちは、単に疲れているのだ。
そしてその疲れは、「精神の問題」でも「性格の問題」でもなく、
社会構造に根をもつ経済的・労働的な疲労である。
「若さ」は苦しみから解放されていない
しばしばメディアや社会は、「若さ」を祝福する。
しかし、それは本当に祝福されるべき状態なのか？
都市で働く若い女性たちは、
学歴のわりに低賃金
キャリアの見通しが立たない
正社員と非正規を行き来し続ける
結婚や出産の“時限爆弾”に追われる
実家や配偶者に頼れない前提で生きている
つまり、笑顔を浮かべる余裕など、どこにもないのだ。
「サービス業の顔」は、表情を剥奪する
都市における若年女性の多くは、接客・販売・介護・医療・受付など、
“感情労働”が伴う産業に従事している。
ここで求められるのは、スキルや体力だけではない。
「常に感じよく」「不快感を与えず」「笑顔で」働くという、表情の維持である。
この表情維持にはコストがかかる。
仕事中ずっと笑っていることで、勤務外では“表情を閉じる”ようになる。
職場での感情労働に疲れた顔が、そのまま都市を歩くときの顔になる。
生活の余裕が、表情を決める
本来、表情は内面の反映である。
穏やかな生活は穏やかな顔を、
切迫した生活は硬い顔をもたらす。
家賃を払い、電気代に震え、奨学金を返し、
将来の年金も老後も見えず、
「何かあったとき助けてくれる存在」もない。
このような状況で、
「すれ違うだけの人間に微笑む理由がどこにあるのか」と問うべきだ。
硬い顔は、社会の硬直の映し鏡である。
「顔つき」は社会階層に従って変化する
多くの人が感じている通り、
都市の上層階にいる女性たちは「表情に余裕」がある。
彼女たちは、視線を避ける必要も、ナンパを警戒する必要も少なく、
「自分を守る」より「自分を見せる」ことに力を注げる立場にある。
つまり、顔の余裕は階級の余裕でもある。
無表情の若い女性たちは、単に機嫌が悪いのではない。
社会的リスクと不安定さのなかを、毎日生きている。
「表情を作ること」すらコストである
労働、家計、人間関係、SNS、将来設計――
これらを同時に背負っている人間に、
「表情の柔らかさ」まで求めること自体が酷である。
私たちはいつから、他人の表情にまで期待する社会になってしまったのか？
なぜ「すれ違うだけの相手」が笑っていないと、落胆するのか？
都市で生きる人間が互いにそのような過剰な期待を抱くとき、
それはもはや他者ではなく、「自分の不安の投影」に過ぎない。
第6章：「表情管理社会」という抑圧
――笑顔までもが消費される時代に
かつて表情とは、内面の自然なあらわれであった。
嬉しいときに笑い、悲しいときに曇り、怒ったときに顔が強張る。
それは人間の情緒の自然な動きであり、誰からも強制されるものではなかった。
しかし今、表情は“管理されるもの”になっている。
特に女性の表情は、サービス、好感度、SNS映え、清潔感といった
商品価値の一部として取り扱われるようになっている。
笑顔は、もはや感情ではなくパフォーマンスになった。
表情は「資本」になった
インスタグラム、YouTube、TikTok。
女性の顔は、もはや表現である以上に、「収益性ある素材」になっている。
笑顔の良さ、柔らかさ、映えるメイク、無防備な寝起き、笑いながらの食事シーン。
それらはすべて、フォロワー数、案件単価、企業案件、マネタイズに直結する。
つまり、表情とは「競争の武器」になったのだ。
すると当然、「不機嫌」「怖い顔」「無表情」は“市場価値がない”と見なされ、
見られない、好かれない、相手にされないものとされる。
SNSが求める“理想の表情”
SNSで賞賛されるのは、「感情が管理された笑顔」だ。
・いつもポジティブ
・疲れていても元気そう
・機嫌が悪くてもそれを見せない
・コメントに丁寧に反応する
これらは本来、接客業やホスピタリティ産業の中で求められるプロトコルであったはずだが、
いまや一般の若者たちにすら求められる“社会的態度”になっている。
つまり、私的な顔すらパブリック性を帯びるようになった。
「感じのいい人」以外は社会から排除される
この傾向は、労働市場でも顕著だ。
仕事ができても「印象が悪い」と昇進できない
能力があっても「空気が読めない」と人間関係から外される
言いたいことをはっきり言うと「協調性がない」とされる
どれも、“感じのよさ”という曖昧な価値に依存している。
その価値が表情に強く結びついている以上、
笑顔や柔らかさを作れない人は、不利な立場に立たされる。
それは笑顔を売れない者は価値がないという、非常に冷酷な構図である。
表情すら「整形」される社会
近年、顔の表情に特化した整形・美容サービスが急増している。
・口角を上げるボトックス注射
・笑顔を美しく見せる頬の脂肪吸引
・無表情でも柔らかく見える目元メイクの研究
これらは何を意味するか？
もはや「感情が自然に顔に出ること」すら信用されず、
常に“演出された快活さ”が求められているということだ。
笑顔のインフレが、都市の「表情格差」を生む
都市空間では、
・広告のモデル
・企業の受付スタッフ
・人気インフルエンサー
・芸能人のバナー
・店員のマニュアル笑顔
これらが常に「完璧な笑顔」を見せている。
つまり、現代都市は“優れた笑顔の広告空間”として構成されている。
この中で、無表情の歩行者は目立つ。
その目立ち方が、「怖い」「感じが悪い」「あの子、暗い」といった判断につながる。
それは、都市の中に笑顔の階層が生まれているという現象にほかならない。
無表情とは、演技を拒否した表現である
もはや笑顔は、「演技できることの証明」として評価される。
であれば、笑わないということは、
その演技を拒否する行為でもある。
すれ違う女性が笑っていないとき、
それは「本当の自分に戻っている時間」なのかもしれない。
あるいは「演じ続けることに疲れ果てた結果」なのかもしれない。
どちらにしても、それは社会にとって「快」を提供しないというだけであり、
本人にとっては、ごくまっとうな表情である。
第7章：「女同士の視線」もまた厳しい
――笑わないことで守られる、沈黙の相互監視
すれ違う若い女性の顔が硬い理由に、
しばしば見落とされがちなもう一つの視線がある。
それは、「男性の視線」ではなく――女性同士の視線だ。
同性からの評価や比較が、無言のうちに表情を規定していく。
これは性別ではなく、「同じカテゴリに置かれる者同士」だからこそ起こる現象であり、
**都市社会における“横の緊張”**とでも呼ぶべき構造である。
比較されるのが前提の空間
都市において、若い女性たちは常に比較されている。
・肌の質感
・メイクの仕上がり
・スタイル
・服のブランド
・歩き方や仕草
・表情の清潔感
これらは、他人に見られるだけではなく、女性同士でも注視されている。
つまり、「見られる性」であるだけでなく、
「見る側」でもあるということだ。
「あの子、媚びてるね」という言葉の圧力
女性が外で笑顔を浮かべたとき、
それを評価するのは、男性だけではない。
むしろ同性からのほうが厳しい。
「あの子、男に媚びてるよね」
「あんなにニコニコしてて逆に怖くない？」
「気があるのかと思われそう」
このような評価の言葉は、
表情を“自然に出す”ことへのハードルを高くする。
結果、笑うことすらリスクになりうる環境ができあがっている。
「演出された無関心」が都市のマナーになる
都市で女性が他人とすれ違うとき、
互いに干渉しないことが礼儀とされる。
それは無視ではない。
互いの領域を侵犯しないという意味での「無言の礼儀」である。
しかしその中にあって、
「少しでも浮いた表情」や「目立つ態度」を取った者は、
同年代の女性たちから無言のジャッジを受けやすい。
つまり、表情すら「演出された無関心」でなければならないのだ。
「怖い顔」ではなく「守っている顔」
女性同士の間でも、表情は常に読まれ、評価されている。
あの人は愛想が良すぎる
あの子はいつも無表情で近寄りがたい
あの人、やたらと自信ありそう
ここにあるのは、「仲間でありながら比較の対象」という二重の関係性だ。
その関係性の中で表情を制限することは、
「評価されないための予防線」でもある。
だから、笑わない。
誰からもジャッジされないように、顔を“引き算”していく。
他人に評価されない“顔”という技術
都市を生き抜く女性たちは、
自分の顔に「自分以外の意味」が乗ることを恐れている。
・媚びていると誤解される
・機嫌がいいと思われる
・隙があると見られる
・性格を決めつけられる
それらを避けるために、あえて無表情を保つ。
それは、誰にも“意味づけ”されないための技術であり、
都市の中で自己を中立に保つための、最低限の鎧である。
第8章：感情表現の不自由──誰が「笑っていい」のか
――沈黙を強いられた表情の政治学
笑いたいときに笑う。
怒ったときに怒る。
泣きたいときに泣く。
そして、何もないときには、無表情でいる。
一見当たり前に思えるこれらの「感情の表現」は、
実は極めて社会的・階級的・性差的な許可制のもとにある。
特に日本社会において、**「誰が、いつ、どんな顔をしてよいか」**には
暗黙のルールが存在する。
「感情を出せるのは余裕のある者だけ」
職場、電車、コンビニ、講義室、カフェ――
どの場所でも「いい表情」をしているのは、
ある程度の立場と安定を得た人々である。
彼ら彼女らは、
多少不機嫌でも咎められず
大声で笑っても浮かない
感情の起伏を「個性」として許される
つまり、感情表現の自由とは、
ある種の“社会的免許”の上に成り立っているのだ。
若い女性が「感情を出しにくい」理由
都市で無表情な若い女性たちは、
感情を隠したくて隠しているのではない。
出すことで「不利益になる」から出さないのだ。
笑えば「軽い」と言われ
怒れば「感情的」と断じられ
不機嫌になれば「面倒な女」とレッテルを貼られる
無表情なら「怖い」と言われる
つまり、どの表情を取ってもリスクがある。
このような社会では、もっともリスクの低い選択肢――**“無表情”**が
最適解として選ばれるようになる。
男性は無表情でいられるか？
一方で、同じ都市空間を歩く若い男性が無表情でいた場合、
それを「怖い」と表現されることは少ない。
彼らはむしろ「普通」「真面目そう」「静かな人」と認識される。
つまり、無表情は男性にとって中立であり、女性にとって逸脱である。
この差異は、「女性＝感情豊かで愛想があるべき」という
文化的刷り込みと社会的期待に依拠している。
「機嫌がよく見えること」への強制
若い女性に対しては、常に「機嫌がよく見えること」が求められる。
この“見えること”が重要で、本当に機嫌がよいかどうかは問われていない。
接客時の「作り笑い」
デート中の「聞き役の笑顔」
SNSでの「楽しげな自撮り」
職場での「無害な表情」
これらは、社会にとって都合のいい「女性像」を維持するために、
強いられた感情の偽装である。
無表情は「感情を抑圧された社会」の産物
すれ違う女性が無表情でいることに、
「冷たい」「怖い」「感じが悪い」といった感想を持つ人は多い。
だがその無表情の背後には、
何十回もの誤読・否定・誹謗・被害の記憶が積み重なっている。
つまり、無表情とは感情の欠如ではない。
感情の出口を封じられた社会の“結果”なのだ。
感情を表に出せる社会は、幸福である
感情表現は、社会の成熟度を測るリトマス試験紙でもある。
どんな人間でも、その場で適切に感情を出せる社会は、
差別や抑圧の少ない社会である。
都市において無表情が「生存戦略」として必要である限り、
その社会はまだ、個人に対して表情の自由すら保障できていない。
第9章：それでも「怖い」と感じてしまう私たちの内側
――他者の表情に期待してしまう社会の無意識
これまでの章では、都市で硬い表情を見せる若い女性たちが置かれた現実を見てきた。
しかし、もう一つの論点として重要なのは、
それを「怖い」と感じてしまう私たちの側の内面構造である。
なぜ、すれ違うだけの相手の表情に心がざわつくのか。
なぜ、無表情の女性に対して「拒絶された」と感じてしまうのか。
そこには、「他者に笑顔を期待することが当然」と思い込んでしまう文化と感情回路がある。
見知らぬ他人に“快”を求めすぎている
現代都市に生きる人々は、
自らの疲労・孤独・不安を見知らぬ誰かの笑顔で埋め合わせようとしている。
・通りすがりに感じのいい態度を取ってほしい
・コンビニの店員が無表情だと気分が下がる
・電車内でしかめ面の人を見ると不快になる
これらは、「他人の表情で自分の心を整えようとする行為」だ。
しかし、他人の顔は自分のために存在しているわけではない。
にもかかわらず、私たちは他人の“表情”を無意識に消費している。
「怖い」と感じるのは、自分の感情が通らないから
誰かが自分を無視したとき、
自分の存在を“見なかった”とき、
人はそこで「拒絶された」と感じる。
これは、「自分は他人の中に自然と位置づけられるべきだ」という
存在欲求の裏返しである。
すれ違う女性がこちらを見ず、笑顔も見せず、何も返してこなかったとき、
人は無意識に「自分が否定された」と錯覚する。
だが、そもそもそこに「肯定」も「否定」もなかっただけなのだ。
無表情な他者＝攻撃的という短絡
無表情＝怒っている
無表情＝不満を抱えている
無表情＝何かを隠している
こうした認知の癖は、
**日本社会における「笑顔至上主義」**の産物である。
テレビ、接客、広告、SNS――
そこでは常に「笑っていること」が正しく、「笑っていないこと」が異常とされている。
その認知が染みついた人々は、無表情に対して過剰に反応する。
そして、それが「怖い」「感じ悪い」という感想になる。
私たちの感情が他人を規定してしまう
他人の表情が私たちの感情に影響を与えるように、
私たちの感情もまた、他人の人格にラベルを貼ってしまう。
「笑っていない＝冷たい人」
「目を合わせない＝無愛想な人」
「硬い表情＝怖い人」
これらは、実在する人格ではなく、
**私たちが自分の感情に基づいて創り上げた“虚構の人間像”**である。
つまり、他人の顔に投影しているのは、自分の感情そのものなのだ。
「期待しない」という優しさ
私たちは、他人に笑ってほしいと思っている。
でも、その期待が過剰になると、
「笑わない人＝悪い人」という不寛容な構造に転化してしまう。
他人に笑顔を求めない。
無表情を、無表情として受け止める。
機嫌が悪くても「その人にはその人の理由がある」と想像する。
これができて初めて、社会における寛容と共生が成立する。
第10章：それでも、笑わなくていい
――都市に必要なのは「沈黙と想像の倫理」である
都市を歩く女性の顔が怖い――
その印象に始まったこの問いは、
ここまで10章をかけて、社会の深層を次々と照らしてきた。
すれ違う誰かの表情に違和感を覚えたとき、
それは相手が異常なのではなく、私たちの内にある“期待の仕組み”が露呈した瞬間である。
今必要なのは、
「誰もが常に感じよくあるべき」という呪縛から、
人間そのものを解放することだ。
無表情に理由を求める社会の異常性
誰かが無表情でいるとき、
「何かあったの？」「元気ないね」と声をかけたくなる文化は、
一見優しさに見えて、その裏に**「常に快活であれ」という強制**がある。
無表情でいる自由。
何も言わない自由。
誰とも関わらずに一日を終える自由。
それがあってこそ、本当の意味での笑顔が成り立つ。
笑顔のインフレに抗うには、「沈黙」を許すこと
都市は言葉で溢れ、視線で満ちている。
しかしその多くは、意味よりも即時の反応と印象だけを追い求めている。
この社会の中で、無表情とは“ノイズ”に満ちた空間を生き延びるための、最終防衛線だ。
すれ違う女性が笑っていなかったとしても、
それは敵意ではない。
防衛であり、自律であり、選択なのだ。
それを「冷たい」「怖い」と一方的に感じる前に、
都市における沈黙の必要性を、社会全体が学び直すべきである。
想像力こそが、表情を読む力である
他人の顔を、見たままに受け止める。
それは容易なようで、極めて難しい。
そこに怒りがあるように見えても、実は眠気かもしれない。
冷たさに見える顔も、実は疲労と緊張の蓄積かもしれない。
無関心に見える無表情の中に、いくつもの選択の痕跡があるかもしれない。
だからこそ、表情を読もうとする時に必要なのは「観察」ではなく想像力である。
「笑わない自由」が肯定される都市へ
笑顔とは、義務ではなく恩恵であるべきだ。
誰かが笑っているとき、
それは「そうするだけの余裕と安全があった」からであって、
それを求められるべきではない。
今、都市に必要なのは、
表情を作らないことを「異常」と決めつけない想像力
他人の機嫌に過敏にならない距離感
無表情を“存在そのもの”として受け入れる寛容
この3つである。
結語：都市を歩くすべての顔に、理由がある
誰もが、他人の顔に「意味」を求めすぎている。
だが、その顔はあなたのために存在しているわけではない。
無表情も、沈黙も、硬さも――
すべて、都市で静かに生き抜こうとする人間の「顔」なのだ。
そしてその中には、あなたと同じように、
傷つきたくないという思いが、ただひとつ、ある。
だから今日も、笑わなくていい。
都市の中で、沈黙のまま歩いていい。
あなたがそうであっていいのなら、
他人にも、そうである自由を渡せるだろう。
あとがき
私たちはいつから、他人に「感じのよさ」を求めるようになったのだろうか。
誰かが笑っていないと不安になり、
無表情の人を「怖い」と感じ、
黙っている人に「何かあったの？」と詰め寄る。
だがその背景には、
社会が他人に「感情の調和」を強制しすぎてきた歴史がある。
すれ違う人々の中には、
疲れている人も、何かを耐えている人も、ただ静かにしていたい人もいる。
そして、笑わないことで自分を守っている人もいる。
表情には、意味を決める権利がある。
それは本人のものであって、見た側が決めるものではない。
この本が、表情に対する想像力と寛容を取り戻すきっかけとなれば、
筆者としてこれ以上の喜びはない。
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